宇波彰現代哲学研究所

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日本の「ラディカル派」の非正規労働の問題に対するあまりの反応の鈍さ 後編

そこで彼らは一様に既存の労働組合が今日の資本主義の変容に対する状況認識の立ち遅れのために、労働者の「利害」を総体として代表していないことを批判する。しかし彼らの「自営労働」論は、プレカリエタに抗する戦略的可能性を十分秘めながらも、その論理はかなりの部分「起業家-企業家的(アントルプルーナー的)個人」(注:それ自体は、私は否定的でない)に基づく人的資本論的な性格を内包している。確かに、「個人化社会」(ウルリッヒ・ベックの表現)の出現(それと対のネオリベラリズムの跋扈)の状況に対してはアクチュアルな認識であるという評価はできるものの、この社会の構成員がすべて「人的資本」たりうるわけではないことを考えるとき、社会保障制度に依拠する必要は必ずしもないが、肝心のそうした能力を持ち合わせていない者を社会的にどうバックアップしていくのかという点では十全な議論を展開していないといえる。その点の不十分さという意味では稲葉振一郎の『「資本」論』(ちくま新書)などは全く同様である(注:含意はわかるけれども、彼の立脚点がポジティブではないからほとんど評価できない)。とくに、今日のプレカリエタ-非正規労働の問題構制が日本でも明らかなようにいわゆる「フリーター」群(若者だけでなく)、無業者に集中しているとすれば、そうした層を視野に入れて社会政策的な含意をもつオルターナティブな提案をしていく必要があろう。その点では、報告では取り上げなかったが、Andrea Fumagalliアンドレア・フマガーリ(注:パヴィア大学・経済学の教員、自らポスト・オペライスタと名乗る。ボローニャとの共著『Il lavoro autonomo di seconda generazione.Scenari del postfordismo in Italia第二世代の自営労働-イタリアにおけるポストフォーディズムの背景』を1997年に刊行)の基本所得(ベーシック・インカム)の議論はオペライスタの「社会的賃金」の文脈に基づいて「自営労働」論の不十分さを補充している。フマガーリは、ボローニャ、ルラーニと同じ「認知的資本主義」「自営労働」論のコンテクストの立場に立ちつつも、彼らの認識ではプレカリエタの状態にある層はいわば「宙ぶらりん」になる可能性もあり、そこで「認知的資本主義」の認識(一部「人的資本」的認識が入る)を発展させるために、基本所得論を導入したと考えられる。この基本所得の考え方には論者によりさまざまな解釈があり、一律では全くない。ただ、その論は下手をすれば、ネオリベラリズムの旗手であるミルトン・フリードマンの「負の所得税構想」と通底してしまう要素(危険性)もあり、社会政策上の具体的な展開となると相当な実施可能性条件はつく(注:基本所得の提唱者であるフマガーリに対しては「左派陣営」から日本でもよく見られる原則的な資本主義批判に基づいた批判が浴びせられている。ただし彼らには今日の状況に対する政策的な提言は全くない。またネオ・オペライスタ内部でも基本所得の評価の足並みは一様でない)。
確かにこれまで検討してきたように「自営労働」論にある種の隘路はつきまとっている。とくに彼らの重視する認知的労働もネグリ・ヴェルチェローネが指摘するように「認知的労働の大多数のカテゴリーは、結局格下げという過酷なプロセスを味わうことになる。この部門は新しい分業の認知的労働においてもっとも不安定的な労働者をカバーし、保証しているだけでなく、低賃金の対人(福祉等)サービスの展開と結びついた新しい標準的なサービスの新テーラー主義の役割も果たしている」(『Posse』2007年11月)実状であれば、この認識(戦略)の将来に影を落としていることは否定できない。
しかし、今日の資本主義の変容の不可逆的傾向のもとでは、今述べたような問題を孕みながらも「自営労働」論の発想に基づいて、「非正規雇用」→「正規雇用」の地位獲得(回復)を求めるのではなく、逆に非正規労働のアドバンテージを活かして、社会的な共同性を獲得する指向性はかなりポジティブに評価できる。この社会的共同性のあり方こそ、日本ではかなりの困難さを伴うとはいえ、プレカリエタに抗するために今後追求すべき課題である。

ただしそうはいえ、イタリアでは「自営労働」論、「基本所得」論は社会政策的な論議の緊張感のもとに少なくとも置かれており、非正規労働をめぐる「ラディカル派」の議論の社会的奥行きと巾は日本とは比較にならない。天皇制の問題と並んで今日の非正規労働の問題を日本社会の大きな問題であると捉えている私としては、この問題に対して私の主たる活動領域であるアソシエ21及びその周辺はなぜかくも情けないくらい反応が鈍いのか、その点で日本の「ラディカル派」の存在根拠が根本的に問われていると感じている。最後にイタリアとの比較で、「一面的な指摘」という批判の謗りを免れない面をあえて承知で、自分への反省も込めてざっとその問題点を挙げておきたい。
まずは社会保障制度全体のありように象徴されるような二重、三重に捩れた日本社会の構造に対して、あまりに不可視すぎて(「入れ子」構造で多義的すぎて)問題解決の糸口が見あたらず。発言できない(うまく表現できない)状況が指摘できる。つい最近朝日新聞(2008年9月30日朝刊)が「社会的連帯論・民主主義再考…政治思想研究はいま 底流の動き拾えるか」というタイトルで政治思想研究の現況を取り上げているが、そこで「「公共性を言いながら目の前の貧困に立ち向かえない政治学者という苛立ちがある」。新しい連帯は多元的な価値を認め合う「個であるための基盤」として構想されている」という宇野重規の苛立ちの発言の概要が紹介されている。なぜ、非正規労働の問題に対して我々の周囲の「ラディカル派」は発言しないのか(できないのか)?

1) その論者の一部は、マルクス主義的な認識パラダイム(とくに原理的マルクス経済学)へのこだわりがあまりに強すぎて、資本主義の「原則的」批判はしても非正規労働の問題のような政策的地平での議論を要求されると全く対応できない。「経済学者」を名乗りながら現実の資本主義の動態を知らない(関心のない)「マルクス学者」が多い。
2) それと大きく関係するが、日本社会にはこれまで(今も)ヨーロッパとは異なり分配的正義(注:ロールズの『正義論』に代表される議論)に基づく社会民主主義などは一度も存在(定着)しなかった(存在していない)という事実をあまりに等閑視している。少なくともヨーロッパ(フランス、イタリア)のラディカル派は自分たちの社会の政策展開の現実を見据えて、社会民主主義との緊張(対抗)関係のもとに自らの思想(思考)を組み立てているように思われる。「分配的正義」の視点を考慮すると結構自分のベタな現実とつき合わせて問題を捉えることを要求されるが(それゆえそう「スマートで、格好いい」発言ばかりできない面も出てくるが)、それを素通りしてヨーロッパの言説を取り入れ、解釈することによってのみ自分の言説を成立させているところがある(「ポストモダン」系の論者に多い)。
3) 自戒を込めて発言したいが、全共闘運動をはじめとする日本の「ラディカル派」の運動は、「一体この社会の何と対決してきたのか」を考えると、相手方の日本社会の構造的不明瞭さもあり、自分でもその評価はよくわからないところがある。ただ、事実としては、日本の「ラディカル派」の運動は、その一部はマルクス主義を標榜しながらも現実には肝心の「資本主義批判」としての現実の労働問題(運動)への関わり、あるいは〈労働〉という根本命題の社会への具体的な問題提起という点でははなはだ訴求力(構想力)に欠けていたと思う。その点が、今日まで運動が内部的な形でも思想的に継承(蓄積)されてこなかった大きな理由であると思う(シニカルに言えば所詮「学生の運動」)。それは残念ながら、イタリアのオペライスタの運動の歴史的総括をしていると強く感じる。今日の寂しい現状を見るにつけ、非正規労働の問題への取り組みを通して、我々の未来への構想力を提示できる動きができたら、と願っている。


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