宇波彰現代哲学研究所

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佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その1

大変に広範な知識と根気をもって書かれた書物である。この著作はパリ第十大学に提出された博士論文を改稿したものらしい。読むにあたって、前評判として、「昔は、海外で学位申請論文を出すとなると、東洋人は東洋的なものを内容に無理にでも入れなくてはならなかった。こういうフランス現代思想だけの内容で論文が通るということは、ずいぶん時代も変わったものだ」というようなことを、年配の方からよく聞いた。この著作を読むと、ただの時代の移り変わりだけではなく、やはり、ねじ伏せるだけの何かがあったからではないかと思わせられる。
文章も明晰で、学術論文でありながら、フランス現代思想について学びたいと読者が思っていれば、それに応えてくれるようなサービス精神を感じさせてくれる。
たとえば、p.23には、権力を再生産するための装置として、アルチュセールの「国家のイデオロギー諸装置」、フーコーの「規律権力」、ドゥルーズ=ガタリの「エディプス的家族」といった概念を並置している。そのように、キー概念を並べて、その類似性と差異を丁寧に解説していくのが本書の基本スタイルであるように思われる。そのスタイルは、我々を明瞭な問題意識へと丁寧に丁寧に導いていくだろう。
本書の副題は「フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール」である。こうしたビッグネームのキー概念を説明していくのだが、副題に含まれていない、哲学にとてつもないインパクトを与えた精神分析家ジャック・ラカンの思想も、本書を構成する欠かせない要素となっている。副題に表記されていないながらも、幾たびもラカンの概念は引き合いに出され、常に表題の思想家たちと比較されていく。本書の通奏低音は精神分析であり、ラカンであると言えるだろう。
たとえば、p.59で「器官なき身体」を表象不可能な充溢したものとし、p.62で「死のモデル」として語るとき、そこにおける「機械」と「器官なき身体」との関係は、ラカン理論における象徴界と現実界との関係に重なるように思われる。ただし当該箇所にラカンのタームは(おそらく、あえて)出されていない。本書では、ラカンは対置されて比較される仮想の論敵のようなものとして主に使われているようだ。
しかし、さまざまな重要概念を取りまとめていく中で、こちらの勉強不足によるものか、やはりその相関性に隔たりを感じてしまう場面もあった。たとえば、p.176のあたりでは、デリダの「歓待」概念を、「残虐性なき死の欲動」として読み解くために、フロイトについて言及している。その中で、「心的構造にとって耐え難い何ものか」が「快/不快の緊張」をもたらし、それが「マゾヒズム的セクシュアリティ」を主体にもたらし、「死の欲動」の表現である「反復強迫」となる、というように論が進められているようだが、そこからデリダの「歓待」についてたどり着くまでの流れはどうもしっくりこないように思われた。ただ、そうした論理の接合性は、学位論文としてはあまりに自明のことを述べていないだけで、読み手の勉強不足もあるのかもしれない。
また、ある要因から、様々な概念を関連付ける際に困難が生じているのではないかも思われた。その要因とは、p.10で断言されているが、「実際、権力のメカニズムはシニフィアンのそれとは何の関係もない。」という態度である。シニフィアンの作用は世界を分節化するものであり、すなわち言語の働きである。こうした、中立的と思われる言語に既に政治性が潜んでいる、というような研究は他の研究領野の方(たとえばフェミニズムとか)に任せて、本書ではもっと問題の領域設定を狭め、緻密にやる、というような目論見を、この断言に込めたのかとも思われた。しかし、権力が内面化され、主体が自らの思考様式や世界観の自明性を信じて、疑わずにいるという状況は、やはりシニフィアンの作用と切っても切れないものがあるのではないだろうか。思考の様式や世界観はシニフィアンの賜物なのだから。
フーコーの博士副論文における、カントの言及について、著者はフーコーがカント的主体を「経験的‐超越論的二重体」として扱っていることを指摘する。経験的自我の複数性に対して超越論的自我の単数性をカントが主張し、この超越論的自我の単数性に認識の安定性の基盤が与えられていることにフーコー(そして著者)は注目し、ニーチェの発想を用いてこの認識の安定性の基盤を揺るがしていく。ここで著者は、「経験的‐超越論的二重体」を、超自我と自我の二重の関係に類比していることは明らかだ。しかし、悟性や感性の形式を語るとき、現代思想に照らして言えば、シニフィアンの産物としてのそれらについて語る方が、その二つの二重体(経験的/超越論的、自我/超自我)の類比はよりストレートにできたのではないか。
ただ、ここにおいてはニーチェ的な思考に照らして、フーコーがカント的主体を批判する様子を説明することが眼目だとしたら、あえて考察の領域を広げすぎて混乱を招かないための配慮であったとも見られるだろう。
そうした、戦略的にあえて言及せずにいるのではないか、と思われる(こちらが穿ち過ぎなのかもしれないが)場面は、ラカンについても多くある。
本書の中で、デリダの「撒種」の概念と、ラカンの「超越的シニフィアンであるファルスによる欠如を中心とした体系」という発想が対比され続ける。しかし、たとえばラカンが馬恐怖症のハンス少年の症例について語るとき、そこにおいて馬は出産や妊娠であったり、排便であったり、ファルスを噛み千切る存在として様々な意味を持つ。こうした多様な意味の産出が換喩的・隠喩的に行われていることもありうる。それも、所詮ファルスを中心としたものでしかない、と言うこともできるとしても、そのファルスを中心とした症例がなぜ個別性を持つのか、という点において、対比すべき論敵としてではなく、類比すべき材料としても使えるのではないだろうか。また、ラカンはファルスの概念を、想像的ファルス、象徴的ファルス、現実的ペニス、などと使い分けているが、本書では「ファルス」と一括りにされている。ひょっとしたら、それによる問題のすれ違いも起きているかもしれない。
ラカン=ジジェクの思想的文脈を、〈他者〉を超越的審級としていると著者は批判しているが、ラカンが、(社会的な)道徳と(現実界に由来する)倫理が相容れない時があるというような意味のことを語り、また、社会的に適合させるという意味での治療という言葉に疑義を呈する時、ラカンもまた、本書の副題に列挙された思想家たちと似た立場にいるように思われる。「超越的な欠如のシニフィアン」としてファルスを取り扱っているが、その欠如の代わりに、どのような形で回帰するか分からないが、幾たびも主体に回帰する現実界の概念をそこに当てはめれば、案外これらの主張は近いものになるのではないだろうか。
本書でセミネール7巻や『エクリ』をこれだけ引用しながら、そうした示唆に著者が気付かずにいるとは思えない。ゆえに、議論を明確にするために、まるで著者が確信犯的に何かに言及せずにいたように思えてしまう。ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」について語るとき、あえてラカンとの類比を用いなかったのではないか、と思ってしまうのもこのあたりの感触に由来する。副題に含まれる思想家にラカンを含めなかったのも、そうしたことを行った遠慮からではないだろうかと思ってしまう。これは一読者の妄想だろうか。
また、それを踏まえて疑問符をつけたくなる箇所もある。


(つづく)

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