宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その2

著者はアルチュセールの立場に立って、「無意識の主体」というラカン用語は「自我と無意識を混同している」という批判を行う(p.224など)。しかし、それは混同というより、確信を持った概念規定なのではないか。ラカンはおそらく、自我についてのイメージもまた、(小文字の)他者から借り受けたものでしかなく、その他者は大文字の〈他者〉の秩序を表象するものでしかないという意味において、自我を無意識に近い扱いをしている。ラカンのシェーマLなどは、その図の中に「自我」という項を含みながらも、無意識と自我の構図ではなく、無意識そのものの図として見られるべきではないだろうか。ただ、自我の無意識性は自我の持つ構造によって隠蔽されるのだが。
アルチュセールの「偏差」や、デリダの「宛先」といった概念と、ラカンの「宛先に必ず届く」という言葉を対置しているが、それもまた、どこかに問題のずれがあるような気を起こさせた。イデオロギーがあり、それを再生産するための実践があり、結果として再生産されたものは、最初のイデオロギーとの逸れを生じるかもしれない。意味もまた、意図されないうちに多様に産出されていくかもしれない。こうした形で著者は、抵抗の可能性としての「偏差」「宛先違い」について語る。しかし、これらとラカンが「宛先に必ず届く」という時には、全く同じ対象について、同じ論法で正反対の内容を語っているのだろうか。必ずしもそうとは言えない側面があるのではないだろうか。
抵抗の可能性としての「逸れ」には、たとえば「権力/抵抗」という二分法をもとに語るとすれば、本来は「権力」の再生産として行われた実践が、結果として「権力」の再生産には与せず、そこに「抵抗」の可能性が生じるということになる。しかし、もし「権力に対するもの」として「抵抗」を位置づけたら、それはやはり「権力」を基点として自らを位置づけたことになり、依然として「権力」を中心として分節化が行われたことになる。こうした意味では、たとえ「抵抗」として何かが産出されたとしても、「権力/抵抗」という二分法もまた同時に再生産されており、意味という手紙は宛先を違えることなく届いたと言える。
つまり、抵抗の可能性として「逸れ」を語る時、それは分節化された領域内で、違う場所に行ってしまうということを指しており、分節化の作用そのものの無化については語られていないのではないか。ラカンにおいて「宛先は違えられることがない」という時、別の場所にずれこんでしまっても、分節化の作用そのものは無化されえないという意味ではないだろうか。区切られた場所でどこに行くか、区切ることそのものがなされなくなるか、という二つの論点ですれ違っているような気もする。それは、二項対立でどちらにつくのか、という発想と、これまでの二項対立そのものがなくなるという発想の違いである。
そうした意味で、「権力/抵抗」という二分法から逃れていくことは極めて困難である。では、そこでペシミスティックになることが我々のありようとして適切かといえばそうとも思われない。ここからは、この著作についての感想だけでなく、現代思想全体の思潮について感じさせられることを綴りたい。
権力から我々が逃れ難いことについてあまりにペシミスティックな態度をとり、抵抗を言祝ぐ、というのは何かしら、我々が生きていくうえで少しばかり不自然さを感じる。愚直な問いかもしれないが、そもそも権力がなぜ恐ろしく、批判の対象になりうるのか、というところから始める必要があるのかもしれない。
フーコーがパノプティコンなどを材料として考察したように、現代思想が論じてきた問題として、主体の心の内側にまで、公共的な秩序や権力が入り込んで自動化してしまっている、という論点がある。それが超自我であったり、規律権力であったりするわけだが、それらはただ禁止を司るだけでなく、欲望も思考もそれらを媒介としてしか成り立ち得ない。つまり、人の心から密室性を取り払ったのが現代思想の発見であったと言える。本書ではそうした問題には、重点は置かれていないのかもしれないが、とりあえずそうした文脈の中で、本書で示された抵抗について考えてみよう。
第一部の結論などで、フーコーの、自らを触発する他者について著者は触れている。また、偶然性がもたらす逸れや、他者を歓待することによる抵抗の可能性も、依然として、そこには自らの内側にはない何ものかが抵抗の可能性をもたらす、という論法になっている。つまり、権力であっても、抵抗であっても、他者を抜きにしては語りえず、それは無媒介的な主体がありえない、ということになるのではないだろうか。
本書のp.198で、デリダの歓待概念について語られている。「暴行者、殺人者であるかもしれない」他者を、「残虐性なき死の欲動」をもって受け入れることが歓待である。「私を侵す者」として他者を受け入れる受動性が、抵抗の可能性であるという。P.316では、「国家の残虐性を他化する可能性を持つ」として、「「不可能」であると同時に、真に「差し迫った」政治的厳命」として語られている。しかし、それが残虐性の他化であろうと何だろうと、「差し迫った」政治的厳命というのはなんだか恐ろしい響きである。
ナチズムの経験があるヨーロッパでは、権力に対する抵抗について語り続けることが知識人の使命なのかもしれない。フロイトが戦争の悲劇から「死の欲動」の着想を得たことや、全体主義の持つ多様性の否定という側面から、ファシズムが約束する享楽は、「死の欲動」として取り扱われるようである。確かに、ファシズムが、無媒介的で完全な形での欲望の満足、というのを約束して大衆を魅了するとすれば、それは象徴界的ではない。しかし、実践の面において、ファシズムに参加するものは、自らを位階の中に位置づけ、機械的組織の一員としての任務を遂行するのであるから、そこには象徴界を通しての欲望の満足があるのではないだろうか。
また、資本主義社会において、様々な文化的イデオロギー装置を通じて公理系がもたらされ、その公理系に従って、欲望にひた走る主体。たとえば、最近の若者の間で、「ファッション・ヴィクティム」という呼称を自称するのが流行っているらしい。ヴィクティムはvictim、つまり犠牲者であるが、これはファッションの流行に敏感でお洒落な人、という意味の(多少の自虐を含んだ)ほめ言葉のようだ。彼らがvictimという英単語の意味を知っているかどうかはさておいて、言い得て妙ではないだろうか。
そうした、自由でいるつもりでいて従順の極致にいる消費主体も、ナチス党員も、約束事への参加を通して欲望するという意味では、きわめて権力に従順と言える。著者も、p.82で、「近代国家(資本主義国家、社会主義国家、ファシズム国家)でさえ、それが資本の公理系の調整を行うに過ぎないという限りで、この公理系から生まれている。」と語っている。
こうした、分節化された領域(権力、秩序)へ巻き込まれることに対して、未分節の混沌からの何かを受け入れることが抵抗であるとしよう(著者が明確にそう語っているわけではない。一読者の私見である)。
さて、ナチス党員も、ファッション・ヴィクティムも、約束事や分節化された領域がもたらす快楽の極限を追い求めているという意味で、極めて権力的であり、そして、心の密室性を失っていると言える。では、抵抗の側はどうか。


(つづく)

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する