宇波彰現代哲学研究所

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「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (1)

本著を読み終えた感じでは、表題はどちらかといえば『精神分析から見た主体の捉え方-フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』のほうがよかった。言われるように確かに「秀英」であり、それは、各文献に目を通し、感心するぐらい正確な理解と目配せの利いた議論の整理をおこっている(とくに各論者の時間的変移に伴う文脈的ズレの読解と補正の試み)。それは、とりわけアルチュセールの引き裂かれる、矛盾に満ちた諸論点を文字通り「縫合」させ、彼の思想的含意を整理しようとする試みに現れている。また、私などは精神分析などの分野(フロイト-ラカン)はほとんど知らないから、それとの関わりあいで見通しのよい論点の整理をおこなっている点では格好の「現代思想入門」といえる。その点では教えられるところが非常に多かった。
その反面、その立論の仕方が、どこか「(現代)思想」のきれいな整理屋(それはまことに役に立つのだけれども)、「優等生」の印象をぬぐいきれなかった。著者は、表題の「抵抗」との関わりにおいて、ここで権力の源泉とされている主権国家(注:日本で言えば天皇制も含む)、資本主義体制というこの世界の現実に対してどういう状況認識をもっているのか(位置関係に立っているのか)、一体この四人の「思想の巨人」にそれぞれどういう思想的共感をもっているのか、もう一歩よくわからないところがあった。若いということもあり、確たる思想的モチーフを求めるような愚は避けなければならないが、でも逆に若いがゆえに「ゴツゴツ」してもよいからもっと突出した問題意識が感じられてもよいと思う。この四人の「思想の巨人」は、西洋世界を内面から統御してきたキリスト教神学(倫理-精神)に対するアンチテーゼ(ひっくり返し)(フーコーの場合)、資本主義批判としての内在性哲学(ドゥルーズ=ガタリの場合)、「事実性」に寄りかかることを拒否し、来るべき出来事を重視する「メシア主義なきメシア的なもの」(デリダの場合)、「正統派マルクス主義」に対する歴史・階級認識としてのマルクス主義の復権(アルチュセールの場合)との関わりにおいて、主体の問題を取り上げ、現実に起きているアクチュアルなイッシューを想定しながら、言表として明確に立ち現れているかどうかは別として、抵抗の問題に突き当らざるを得なかった。その彼らの緊張感こそ主体-権力(抵抗)の関係にあって語るべき重要な要素であると思うのだが、そうした問題意識の強度はあまり伝わってこない。抵抗の問題などはそれ自体矛盾的な要素も含むゴツゴツしたものであり、そこに焦点を当てて一面的でもよいから自分の評価を下してもよいのに、きれいに均して整理しすぎているところがあるから、お行儀のよい「抵抗の類型学」を語っているようにも思えてしまうところはあった。
もっともそう言うといかにも著者の「抵抗」の観念を支える問題意識の強度が希薄であるとも聞こえてしまいそうだが、本著の最終主題となるアルチュセールの「イデオロギー構造の認識」の評価-アルチュセールの認識の変遷のありかを思想的に突き止めようとする苦闘-を通して、彼は彼なりに自分の「ゴツゴツ」した問題意識をぶつけているとも思える。『権力と抵抗』のタイトル名が畢竟ふさわしいかどうかは、その試みがどれほど思想的に内在化されているのか(自分のものになっているか)、その評価に求めることができるであろう。

ところで、私はこの間ずっとアソシエ21の学術講座の宇波彰先生のアルチュセールの『フロイトとラカン-精神分析論集』(一部)『再生産について』(主としてイデオロギー論)の読書会に参加してきている。動機は、概念としては一応知っていた「国家のイデオロギー諸装置」の内実とはグラムシのへゲモニー論との関わりにおいていかなるものであるかを探ることにあった。この読書会は、文章を一語一語読み上げ、微に入り細に入り問題点を探っていくので、駄洒落も繰り出される自由な、ほのぼのとした言説空間であることも手伝って、読解は遅遅と進まないのだが、ただこれが逆に問題の掘り下げという意味では非常に有効であった。とくに、参加者には精神分析の分野に詳しい人たちがいたから、そこでのフロイト→ラカン→アルチュセールの文脈の読解は私のアルチュセール理解には結構役立っている。もちろん、精神分析の分野などは知らなかったから、精神分析の方法論を導入してイデオロギーの構造を論じるマルクス主義者・アルチュセールの概念構成を始めて知ったときはやや驚きの感を禁じえなかった。ただ、読んでいくと、アルチュセールの論証の無理を少しずつ感じるようになった。それはなぜなのか、その部分はどこなのか…『再生産について』の捉え方に関しては、私とは視点、問題意識はかなり違う面もあるけれどもその無理という点では著者も認識を共有しているように思える。ここでは、そこに問題をとりあえず絞って、アルチュセールの論証の無理を修正・補充しようとする著者の試みを少し探っていきたい。というのも、その試みこそが著者の意図でもあり、また極論すれば本著の評価はこの試みの説得性の如何にかかっていると思うからだ。

第5章「イデオロギーについて」の補論「鏡像的中心について」は、本著のなかできわめて重要な意味をもっている。この補論は、私が既に読んでいた「思想」掲載のアルチュセールに関する二つの論文(第5章、第6章に該当)では全く言及されていない部分である。思うに、彼は肝心の『再生産について』での「国家のイデオロギー諸装置」「イデオロギーは個人における主体に呼びかけるinterpeller」のテーゼの論証の不十分性に気がついていたからこそ、これを修正・補充し、後期アルチュセールの「構造変動」の議論に繋げるためにもこの補論を今回の著作に挿入せざるをえなかった。ラカン精神分析を踏襲して「イデオロギーの構造」を展開するアルチュセールの論理構成の問題点、つまり「イデオロギーは個人における主体に呼びかける」での「鏡像的関係におけるこの抽象的図式化(注:「講座」の『再生産について』の読解でも問題点となった、キリスト教イデオロギーの諸主体(個人)への呼びかけを例として用いるイデオロギーの通時的構造の説明)」では、「抵抗の問題を、とりわけイデオロギーの偏差の問題を取り逃がしている点」を指摘している。この説明では「イデオロギー的呼びかけの物質性とイデオロギーの偏差の問題が介在していない」、その結果、アルチュセールがもっとも主張したかった(固執した)「資本主義的生産関係における「階級闘争」」を包含していない、つまり「イデオロギーの物質的側面をとり逃している」というわけである。引用が少しくどくなるが、「〈絶対的主体〉と諸主体の間の再認/否認のメカニズムが前近代における宗教的イデオロギーの構造(神はそれまで超越性として存在する)を説明するためには適切であるにせよ、それは資本主義生産関係における「階級闘争」の問題、つまり抵抗の問題を説明することはできないだろう」。だから、著者は『再生産について』が書かれた「前期アルチュセール」(注:著者はアルチュセールの思想的連続性を強調しているからあえて前期-後期という表現をとらない)に関して「彼はイデオロギーの通事的構造を「鏡像的中心化」として定式化することで、その定式化そのものを抵抗の問題を理論化するための「障害」としてしまった」と断じざるを得なかった。というのも、「資本主義生産関係における抵抗(「階級闘争」)は、支配的イデオロギーの呼びかけに偏差を与える。[…]イデオロギーの呼びかけと取り込み(注:著者はinterpellationに左記の両方の意味を読みとっている)の間にはずれが存在し、このずれは「鏡像的」関係に還元することができない」からである。このずれ(「物質的偶然性」として介入するイデオロギーの偏差)の伏在こそが、抵抗の問題を構造変動として捉えることができる重要な要素である。
結局、著者はラカン「鏡像化理論」を援用してのアルチュセールの「イデオロギーと主体の関係」の説明は、説明自体(論証性)が十分でなく、事実失敗していると見做している。その点に関しては私も同意する。



(つづく)

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   一般法則論者

一般法則論者 | URL | 2009年02月15日(Sun)21:50 [EDIT]