宇波彰現代哲学研究所

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「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (2)

そこで、上記の欠点を補正するためにイデオロギー(第一次イデオロギーと第二次イデオロギー)の「逸れ-偏差」からアルチュセールにおける抵抗の論理を独自に展開(導出)する。ここが、彼がもっとも苦心している部分である。ここでは、「イデオロギーは個人における主体に呼びかける」という「イデオロギー的縫合のメカニズム」を「「鏡像的」中心化ではなく、支配的イデオロギーに対する転移と定義」(傍線:著者)する。その「イデオロギー的転移とは、自我を支配的イデオロギーに再構造化することであり、イデオロギー諸装置からの呼びかけに応じて無意識が支配的イデオロギーに「適った」形式、要素、関係を「選択」することである」。従って、「国家のイデオロギー諸装置が注入しようとする支配的イデオロギーは、イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程において逸れを孕む。支配的イデオロギー(〈一次イデオロギー〉)と主体によって内面化されたイデオロギー(〈二次イデオロギー〉)との間のこの偏差の中に、支配的イデオロギーへの抵抗の効果が現れる」のであり、「アルチュセールは抵抗の可能性を、主体の能動性ではなく、このようなイデオロギーの偏差に見出している」と論じるに至る。「後期アルチュセール」の検討を通じて、1960-70年代のアルチュセールのイデオロギー論を評価し、国家のイデオロギー諸装置を再構成する。つまり、「国家のイデオロギー諸装置は、儀式的実践、物質的諸装置を通じて主体をイデオロギー的に縫合しようとするが、イデオロギー的呼びかけ/取り込み過程における偏差の介入によって 主体のイデオロギー的縫合は完全には成功しない。このイデオロギー的縫合の失敗によって、主体の抵抗の可能性が確保されるのである」。これは、構造変動-構造的因果性の捉え方を導入した再構成である。

彼の修正・補充の試みは、一見構造変動-偶然性唯物論に傾きつつあるように見えるけれども、それでも、アルチュセールの1980年代の「偶然性」のみを肯定する偶然性唯物論(注:イタリア語で言えば偶発的唯物論materialismo aleatorioであるが、aleatorioは「運任せ」の意味だから、その限りでネグリの「サイコロの一振り」という指摘は当たっている)ではなく、「必然的なものと予測不可能なもの、法則性と偶然性の間のずれにとどまる彼の1970年代までの思想」を評価する。そこでは、アルチュセールの特異性とは「規定と無規定、必然的なものと予測不可能なものの間のずれに自らを限定しようとした点にある」と受け止められる。その偶然性の捉え方に基づいて、アルチュセールの「経済的なもの」の一義性は構造変動の認識として次のように再構成される。「アルチュセール的な偶然性は、弁証法的秩序の中に物質性を導入し、それを壊乱する。つまりアルチュセールにおいて、偶然性とはこの物質的な偏差を意味するのである」(傍点著者)。「諸矛盾が構造変動を引き起こすためには、偶然的な物質性の侵入(政治的なもの)が不可決である。アルチュセールにおける偶然的なものとは、経済的諸矛盾の直中に介入し、それを現勢化させ、それを構造変動の「爆発的な」力に変容させるような物資性の侵入のことである」。しかし、著者はアルチュセールの本来的立脚点は重々承知しているから、そこに立ち返って、「私たちは最も微妙な地点にいる。経済的法則、つまり最終審級における決定は絶対に存在しなければならない」ことを認めつつ、「1. アルチュセールにおいては、偶然性という概念の導入は、決して単なる政治的機会主義ではないこと、2. 経済的審級の決定力へのアルチュセールの固執は、政治的複合的状況と切り離すことのできない資本の運動の分析の決定的重要性を示唆すること、これらの二つの点において1960年代のアルチュセール理論を最も肯定的に評価する」(傍点:著者)と改めて強調せざるをえなかった。確かに、著者がそう強調しなければならなかった気持ちは理解できる。
ただ、この一連の修正・補充の試み(認識)に、それが「ラカン理論に対する切断」の上に立って、構造変動を導入してアルチュセールの論理の再構成を目指しても、アルチュセールの、論証不十分性ゆえに生じるジグザグした苦闘をそのまま再現している(引きずっている)苦闘の跡を感じてしまう。その苦闘に同情を覚えつつも、ここでは私の印象をざっと並べておきたい。

確かに、アルチュセールの『再生産について』での〈一次イデオロギー〉〈二次イデオロギー〉の記述においても、なぜ一次イデオロギーが主体によって内面化されるのか、その内的メカニズムは不明であった。その言明の枠組みを尊重しながら、その不十分なところを補充しようとする著者の試みも、結構大変なものであると想像する。その点で、同情の余地は大いにあるが、アルチュセールの文脈を整理(再構成)していくうちに解釈としてはその限りでは整合的なのだが、その反面どこか思弁的で、我々の心に引っ掛かる契機のない論理ができあがっている印象を受ける。
厳しい言い方になるが、上記の「自我を支配的イデオロギーに再構造化する」における「自我の再構造化」、「イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程において逸れを孕む」における「逸れを孕む」、とは一体どういうものか、私には正直言ってピンとこないから、また「この偏差の中に、支配的イデオロギーへの抵抗の効果が現れる」内的メカニズムとは何か(説明自体は結構しているけれども)は不明だから、それらの言明は、現実世界と照らし合わせたとき、「弁証法的法則」の論理と同じくらい不確かなものに思えてしまう。こういう言明の積み重ねでそれ自体としては整合的な論理を組み立てても、「本当にそうなのか?」という疑念(そんな風に展開するの?)がどこか残ってしまう。その辺は著者にちょっと聞いてみたくなる。
また、「経済的審級の決定力へのアルチュセールの固執」の何を活かせたのか、それが問われる。上記の構造変動の認識は偶然性の因子を取り込んだその再構成であるが、マルクス主義者・アルチュセールの原型の「長所」を思想的に活かせているのか… どこに著者はアルチュセ-ル(思想)への共感を見出しているのか、それが根本的に問われる。その点がもう一歩わからなかったというのが、率直な印象である。


(つづく)

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