宇波彰現代哲学研究所

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「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (3)

私が『再生産について』を最初読んだとき、まず感じたのは、「イデオロギーは主体における諸個人に呼びかける」のテーゼ(注:第三のテーゼ)のトートロジー性である。イデオロギーと主体の関係の解き方が堂々巡りで(詳しくは『再生産について』西川長夫監訳 平凡社P363を参照されたい)、著者は「鏡像的中心化」という言い回しでその問題の一端をインプリシットに指摘したと推測している。大体「支配的なイデオロギー」という表現自体が、トートロジーである。『再生産について』では「支配的イデオロギー、つまり支配階級のイデオロギー」という表現がなされているが、これは説明になっていない。「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」として問題は設定されなければならない。この問題設定の中にアルチュセールの概念構成の問題を解く重要な鍵が隠されているように思える。
私の勝手な思い込みを許してもらえれば、マルクス主義者であるアルチュセールは、マルクスの『ルイボナパルト・ブリュメール18日』のあの動態的な歴史・階級分析の意義・利点(階級(経済)的利害によって歴史の動因が決定される)を当然認めていたと思われる。余談だが、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』は私の愛読書である。それは単に歴史・階級分析の書というばかりでなく、物語-演劇として風刺、諧謔、アイロニーに充ち充ちており、私は戯曲として再構成したいという誘惑にすら駆られる。マルクスは序幕にあたって「[…]私は平凡奇怪な一人物(注:単なる酔っ払いで、滑稽な人物)をして、[ある人物の扮装をまとうことによって]英雄の役割を演ずることを可能にした情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかを示そう」、と口上を述べ、推理小説仕立てで「滑稽な人物」(俗物=経済的利害の反映物)を次々に登場させ、最後に「英雄の役割を演ずること」ができた謎を解き明かしていく。何回読んでもその手法の圧倒的鮮やかさには魅せられる。この中の登場人物は経済的利害の反映物にもかかわらず、皆独自のキャラクターをもっている。この手法に基づいて、アルチュセールは「イデオロギーと主体の関係」を描きたかったのではないか、とりわけ、当時主流であった正統派の経済反映論に対して、また主体の位置が既に決定されている「現実世界の疎外された性格による解決(注:疎外論)」、「イデオロギー的な欺瞞の張本人である諸個人の「党派」による解決」(『再生産について』)に対して、マルクスの歴史・階級認識の意義・利点を再認識させたかったのではなかったのか、そうとも思える。憶測を逞しくすれば、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』はいわばマクロの次元であるが、主体-精神というミクロの次元に引き下げて、イデオロギーの構造(既成のマルクス主義が等閑視する主体の問題)を論じたかったのではないか、ということである。
そう考えれば、私にとってアルチュセールの次の発想はわかる。その点で、『再生産について』の「第一のテーゼ イデオロギーは諸個人が自らの現実的な存在諸条件に対してもつ想像的な関係を表象している」、「第二のテーゼ イデオロギーは物質的な存在をもつ」は、この文言の限りは、先に述べた第三のテーゼへの導入でありながら、私にとって首肯できる。ここで混乱を起こさないために、イデオロギーとは、マルクスの用語法に倣い「ひとりの人間、あるいは社会的な一集団の精神を支配する諸観念や諸表象の体系」(同)と捉えておこう。
「第一のテーゼ」に関しては、「あらゆるイデオロギーは、その必然的に想像的な変形(注:原語はdeformaであり、「歪曲」という訳はアルチュセールの含意をやや捻じ曲げている)において、現存の生産諸関係(及びそれに由来するその他の諸関係)を表しているのではなく、何よりもまず、生産諸関係及びそれに由来する諸関係に対して諸個人がもつ諸関係(想像的な)を表しているである」(同)というように、「存在の諸条件に対する人間の関係」という要素が、従来的な「反映論」的解釈に付け加えられる。そこで、その「諸個人に対して与えられた表象は、なにゆえ必然的に想像的であるか、さらにこの想像的なものの本性は何か、という別の設問に置き換えられなければならない」(同)ことになる。この「想像的なものの本性」を巡って「第三のテーゼ」のイデオロギーと主体の関係へと議論は連結される。ただ、この「想像的な」とはラカンの精神分析のコノテーションを帯びた表現なのだが…
「第二のテーゼ」に関しては、「イデオロギーを構成しているように思われる「観念」あるいは「表象」等々が、理念的、観念的、精神的な存在ではなく、物質的な存在をもつ」(同)と、「観念」あるいは「表象」の物質的基盤が確認されている。ここで重要なことは、「[…]このようにして設置された完全にイデオロギー的な「概念的」仕掛け(彼が信じる諸観念をそこで自由に形成し、あるいは自由に認識する一つの意識を与えられた主体)のおかげで、前記の主体の行動(物質的な)は、そこから自然に流れてくる」(同)ことである。ただ、ここまではよい。だんだんトートロジー性を帯びて、わけがわからない言表になってくる。曰く、「この主体がもつ信仰がもつ信仰に関する諸観念の存在は物質的である。それはこの主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践の中に挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである」(傍点:アルチュセール)。この後で、ここで言及されている四つの「物質的な」に関して、アルチュセールは「物質性の諸様態の差異に関する理論の検討は別の機会に譲りたい」(同)と、肝心なテーマから逃げてしまう。思えば、実際には、マルクス主義の(資本制)認識にとって最も重要な「物質性」(注:私は経済的利害と解する)に関する基礎説明は弱く、「物質性」が諸個人の行動(意識)の中にいかに反映されるのか、その論証はほとんどなされていない(これはもしかしたら不可能かもしれないが…)。「国家のイデオロギー諸装置」という概念でそれを明らかにしようとしたとも判断できるが、それもラカン精神分析の認識論を導入し、その立論の仕方の欠陥ゆえにほとんど中座している。脇道に外れるが、こうした論証の不十分性は、フーコーと比べて読解の上で常に欲求不満を覚える大きな要素であった。
「国家のイデオロギー諸装置」の核心テーゼは第三のテーゼであり、第一のテーゼ、第二のテーゼはそのお膳立てである。ただ、この第三のテーゼは、先に述べた論証のトートロジー性ゆえに、また著者が指摘している「イデオロギーの通事的構造を「鏡像的中心化」として定式化」しているゆえにほとんど説得性をもたない。そのために、イデオロギーの構造(主体の問題)は解明されず、従って、「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」という命題も解明することができなかった(注:この文脈でいくと「経済的利害は言説機制作用においていかに諸個人の精神(意識)を取り込んでいくのか」が大きなテーマである。ヘゲモニー論と関連して、経済的利害と言説機制作用の関係は解くべき重要なテーマである)。当然、そのことは「国家のイデオロギー諸装置」の中心装置である学校-家族の「イデオロギー」の機能は期待したほど明確化されていないことを意味する。

一体どこにアルチュセールの主要な関心が向けられていたのか…もちろん唯物論と精神分析の節合にあることは間違いないのだが、精神分析の認識論の格好の素材(対象)として、教会-学校をまず想定し(注:それは比較的イメージしやすいから)、そこから「国家のイデオロギー諸装置」のイデオロギーの機能を同定しようとしたのではないか、そう思えてくる。ただ、残念ながら「国家のイデオロギー諸装置」は欠陥品である。
私の当初の勝手な思い込みも若干くじけそうだが、それでも、アルチュセールは「経済的審級の最終審級における決定性」に関して「正統派マルクス主義」とは別のアプローチ(立場)で、「国家のイデオロギー諸装置」を解き明かすという意欲は保持し続けたと信じてやりたい。また、「国家のイデオロギー諸装置とは、その多様性においてお互いの間に諸矛盾を孕む脆弱な存在であり、その意味で超越的な存在でない」(同)という認識は、アルチュセールが大きな影響を受けたグラムシのヘゲモニー論の読解に示唆を提供する可能性はある。その内実はともかくとして、概念的枠組みのスケルトンだけは、マルクス主義的な歴史・階級認識の枠組みの長所としてある部分活かしてやりたいという気持ちはある。私の場合、その概念を始めて知ったとき、これはあの「天皇制」(タブー化されている意味では若干「抑圧装置」の側面もあるが)の構造(天皇制-学校)を解き明かす上で少しは役に立つと思ったから…


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コメント


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もうこういう類の本はやめていただきたいものですね。
佐々木中の『夜戦と永遠』もそうでしたが、既存の思想の継ぎ接ぎでは、オリジナルの思想を超えることは出来なと思いますし。
なんのための学者であるのかを、個々の先生方に問いたい気持ちでいっぱいです。

木田原 形而 | URL | 2009年02月20日(Fri)05:27 [EDIT]