宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

近ごろ都で流行るもの

1976年に発行された、POPEYEというファッション雑誌がある。若者向けの男性ファッション雑誌で、それがだいぶ前に、オイリーボーイなる増刊誌を出したそうだ。このオイリーボーイの方は、創刊当時のPOPEYEの雰囲気が売りであるらしい。すなわち、かつてPOPEYEを読んでいた40代50代の男性がターゲットで、「みんな「大きな少年」になった。」というキャッチコピーが表紙に大きく印刷されている。このオイリーボーイの誌名の由来は、白洲次郎かららしい。イギリス留学中に自動車いじりが趣味の白洲は、常に油で汚れていて、そこからオイリーボーイというあだ名がついた。そういえば、最近、中年サラリーマンが対象であるような週刊大衆誌などでも、白洲次郎という人にまつわる記事をよく見る気がする。2009年2月28日には、NHKで「白洲次郎」というスペシャルドラマも放送された。つまり、白洲次郎は流行りなのである。短い文章で、このことについて少し考えてみたい。
様々なメディアで白洲について語られる場合、その趣味の良さ、教養の高さ、揺るがぬ信念、GHQを相手にわたりあった胆力と政治的業績、など、称揚の対象として、迷える現代日本人が手本にすべき人物として描かれている。白洲家は名家であり、明治維新後に鉄道敷設などの事業を起こした他、貿易で巨万の富を築き、銀行の頭取など、政財界の重要ポストを歴任する富豪であったらしい。当然、白洲次郎も富裕層に生まれた恩恵として、前述のような、語られるべき美点を持ち、大正期にイギリス留学をすることができたわけである。
さて、この流行を取り扱っているメディアが想定する受け取り手は、特に選民というわけではない大衆である。白洲次郎について書かれたコラムが載る同じ号で、格差社会を糾弾する記事が同じように載るということも当然ありうる。NHKも同じで、格差社会を問題とするドキュメンタリーを作っている。
こうした態度には首を傾げざるをえない。白洲次郎という貴族的英雄を産み出したのは、超が頭に三つ着くほどの格差ではないのか。彼が大正期にケンブリッジ大学に留学し、イギリスの地で自動車を乗り回してオイリーボーイと呼ばれるまでになったのは、超常の力のなせるわざではなくて、莫大な財力があったからである。彼が乗り回したベントレーや、彼の父が道楽で建てた建築は、労働者から搾取した剰余価値だか、あるいは血税というものが一箇所に集中して形を変えたものではないのだろうか。教養や審美眼というのも、そうした経済的土台の上にある文化ではないのか(だから、お金持ちは文化を守る、というのは正しくもある)。
血税や剰余価値という表現は、きちんと歴史的な検証を行ってみれば適切ではないのかもしれない。しかし、大正期のオイリーボーイも、その父(こちらはその時代にハーバード大学に留学している)も、「改札の内側」にいる人間であることは間違いないだろう。財貨というのは、改札の内側にいる、ごく小数の決まった人たちの間でぐるぐると回り、改札の外側には、ほんの少しおこぼれがあるばかりだ。その改札をまれにくぐる人間がいて、それを立志伝中の人物として人々はありがたがる。しかし少なくとも、白洲家に生まれたということは、生まれながらに改札の内側にいたということになるだろう。
私の知人に、証券会社で営業をしている人がいる。ネットで何でもできる時代に、わざわざ個人顧客の開拓のために訪問営業をするのだから、大変な仕事である。その人がある資産家に営業を行った時、「一千万円あれば、君の会社を通して株を買うより、政治家に渡すよ。その方がずっと確実だし実入りが大きい」と言われてすげなく追い返されたそうだ。そういう風に財貨は回っていくのだろう。また、アメリカの資産家は、初対面の相手に「何の仕事をしているんですか?」とは聞かないそうだ。彼らの資産は勝手に運用されていて、その運用益で暮らしている。貴族制というのは、現代にも存続しているようだ。もっともそういう構造は、巻き起ころうとしている恐慌がリセットしてしまうのかもしれないが。
大衆向けのメディアを見てみると、現在進行形の富の偏在においては、人は批判がましいことを言うのに、かつての時代にあった富の偏在は、賞賛の対象にすらなるらしい。今も似たような状況が起こりうるならば、諸手を挙げて喜べばいいのに。
ある種の文化は、富の偏在が生み出す。少ない賃金で莫大な労働を強いられる労働者がいる一方、莫大な財貨を所有する資産家がいる。資産家が莫大な財貨を用いて労働者に莫大な労働をさせる時、莫大の二乗になるわけで、そこに何らかの質を持った作品が生み出される。そういう文化は貴族制的な体制によって担保される。
だから白洲次郎を賞賛する書き手も読み手も、現代の格差社会を喜べばいい。血税を湯水の如く使う二世議員だとか、密室で全てが決まる政財界の行く末だとか、金持ちの子がますます金持ちになり、貧しい者の子はますます貧しくなる格差社会の到来を、彼らは喜んでしかるべきだ。そうでないと一貫性がない。
もっとも、今は駄目な二代目の典型に見えるような金持ちのバカ息子が、いざ国家の危機となれば、英雄的な仕事をするのかもしれない。もしくは、我々の目から見たら豚児のように見える二代目や三代目が、密室において国家の危機を救っているということもあるかもしれない。
ここで問題にしたいことは、白洲次郎という人の人格や業績ではない。彼の審美眼や、彼の政治的業績について、私は論ずる術を持たない。私がこの文章で問題として取り扱いたいのは、情報の送り手と受け手の、省察力である。白洲次郎が高級外車を乗り回していたことは素晴らしいこととしながら、大久保利通の血を引く現在の総理大臣がホテルのバーに行くことを批判しても説得力が無い。
それともひょっとして、白洲次郎が好きな人たちは、自分こそが、一握りの貴族のような存在にそのうちなれると思っているのだろうか。どう控えめにとらえても、私には、そういう無邪気さは知的なものとは思えない。そういう無邪気さが時代の空気ならば、それこそが最も危惧すべきことかもしれない。
どうでもいいことですが、みなさんが白洲次郎という人を持ち上げている時に、こういう文章を書いてしまう私の方が、ダンディズムに五十歩くらいは近いと思いませんか(百分の五十)。GHQ要人をして、「唯一従順ならざる日本人」と言わせしめたらしい白洲次郎ならなんと言うだろう。



(文責  土佐巌人)

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コメント


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我が意を得たり!

宇波先生、こんばんは。この白洲次郎を取り巻く日本の歴史観にちょっと違和を感じていた私のわだかまりを見事に言い当てていることに共感。志田信男著の「鴎外は何故袴をはいて死んだのか」にも共通するアイロニー富んだ見解。ますます、宇波先生の授業を受けたくなりました。

八木幹夫 | URL | 2009年03月08日(Sun)21:35 [EDIT]