宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

呑龍さまの周辺

都市基本問題研究会は、去る4月下旬に群馬県太田市において調査活動を行なった。以下はその中間報告である。
太田市には「呑龍さま」と呼ばれている大光院という寺がある。江戸時代初期に呑龍上人が創設したという大きな寺である。しかし太田市もしくは東武鉄道は、この寺を積極的に宣伝して太田市の観光に一役買わせようとしているようには見えない。実際にこの寺に行こうとして東武線の太田駅を降りても、「呑龍さま」を宣伝するような大きな看板などはなく、私が見落としたのかもしれないが、はっきりとわかる道案内もない。駅のある建物がむやみに大きく、何となくガランドウという感じである。観光案内所はあるが、何となく入りにくい作りになっている。「呑龍さま」は駅の西北の方向にあるが、駅前は開発中で殺風景であり、商店街がすぐに広がるということはない。
呑龍さまの場所は、案内の看板がなくても、歩いていた人に」道を聞いてすぐにわかった。駅からかなり歩いて着いた「呑龍さま」は、境内の広い寺である。私が持って行った案内書は『ブルーガイドパック上州路』(実業之日本社、1982年刊)で、いまから30年ほど前のものである。しかし、古いものにはそれなりの価値がある。当時の物価もわかる。それには「呑龍さま」の境内に小動物園があると書かれてあったが、いまは存在しない。このお寺が経営する保育園があって、その先生が数人の子どもたちを連れて本堂にお参りしていた。しかし週日でもあり、ほかには「研究会員」(私ひとりだが)以外の人影はなかった。
この寺の一角に大きな看板が立っていて、そこに中島知久平の仕事が紹介してあった。彼は最初は海軍機関学校出身の士官であったが、やがて退役して中島飛行機を創設し、軍用機の生産を行なった人である。戦争末期に作られた双発の爆撃機「呑龍」は、「呑龍さま」にちなんで付けられた名であるらしい。中島飛行機は、戦後になって富士重工となり、小型車「スバル360」などを生産したが、その前身である中島飛行機の工場のひとつは、「呑龍さま」の東側に作られたのであり、いまでも富士重工の工場として使われている。
太田市にはこの富士重工などで働く多くの外国人労働者が暮している。特にブラジルから来ている人が多いらしい。駅に戻ってから南口を出たとところにあるコーヒーショップに入ってみると、従業員のひとりと、二人の客は明らかにブラジル人だった。
例によってインターネットで予約しておいた駅近くのビジネスホテルに一泊したあと、太田から東武桐生線で世良田(せらだ)まで行った。その駅の南2キロメートルのあたりに長楽寺という寺と東照宮があるというので行ってみることにしたのである。東照宮は徳川家康を祀ったもであるが、日光だけでなく、静岡や川越にもある、しかし群馬県にもあるとは知らなかった。私は静岡県の浜松出身であるが、家康は浜松にいて、三方原で武田軍と戦って敗れた。このことについては「アフルンパル通信」第7号(「リンク」を参照して下さい)に掲載された拙稿「甘楽の赤武者」で触れたことがある。一時間に一本しかない電車に乗って世良田で降りた。世良田は無人駅で、降りた客は私ひとりだった。ところが駅のあたりに、観光の案内になるようなものはまったく存在しない。最初から歩いて行くつもりだったが、ふと見ると駅前の自転車預りの店で自転車を無料で貸してくれることがわかった。「風が強いから気をつけて行ってらっしゃい」という店の女性のことば通り、たいへんな強風で、しかも北風だったので、行きはペダルを漕ぐこともなく、あっという間に長楽寺に着いてしまった。なぜそこに東照宮があるのかもわかった。徳川家の先祖がこのあたりを支配していた新田氏と関係があったからである。歴史の本を読んでもいろいろわかることがあるが、実際に歴史の跡がある土地に行くことにも大きな意味がある。
東村山の拙宅の近くに久米川古戦場がある。また隣の市である所沢にある小手指原もやはり新田義貞と北条軍が戦ったところである。新田軍はどういう経路をたどって鎌倉へ攻めて行ったのだろうか?所沢にある椿峰というところは、新田氏の武士たちが食事のときに椿の枝を使い、それを挿しておいたところ、やがて椿の木がたくさん生長したという言い伝えのあるところであり、柳田國男がどこかで書いていたと記憶する。また拙宅の近くには、勢揃い橋という地名があるが、それは新田氏の軍勢が勢揃いした場所であるという。いまそのあたりは松が丘という住宅街になっているが、40年ほど前は、まむしが生息する谷間のようなところで、まむしを捕まえに来たという男に会ったこともあった。それが西武による住宅開発で「高級住宅地」に変わったのであるが、最初のうち、その住宅地内でどういうわけか交通事故が頻発し、占い師に見てもらったところ、新田・北条の戦闘で死んだ武士たちの霊がさまよっているからだといわれ、供養をしたところ事故が減ったという話であった。つまり私は新田氏のことに前から関心を持っていたのである。
さて、私はそれから強風にさからって世良田の駅に戻り、しばらく無人の駅のホームで待ったあと、織物で有名な伊勢崎まで行って街のなかを歩いた。意外にも静かな町であったが、モスク風の非常に大きな建物がそびえていたのでビックリした。駅で聞いてみると、結婚式などの行事をするためのものだと教えられた。
都市基本問題研究会はこのあとサッカーで有名な山梨県の韮崎市でも調査を行ったが、その報告は次の機会にすることにしたい。

(2009年5月6日)

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