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宇波彰現代哲学研究所

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(4)

2.うつとアディクションと倒錯と「大文字の他者の死」?    

2-1.  

第5章「ポストモダンにおけるうつと倒錯」ではアディクションやメランコリー、倒錯といったことが「ラカン派臨床社会学的」に扱われており、評者の関心分野である依存・アディクション問題に関わるところであるのでまず読んだが、悲しいかな、はっきり言って、よく理解できないことが多かった。 
 それゆえ己の無知を呪いつつこの章の議論の流れを多少丁寧に辿っていきたいが、取り上げる対象はうつとアディクションに限定したい。その理由は鬱とアディクションをめぐる樫村氏の議論を検討することで、この章の議論に関する評者の素朴な疑問は十分明確になるからである。
この章の冒頭ではベナサヤグの「われわれはスピノザのいう『悲しい情念』に支配された時代を生きている」という言葉への参照がなされ、議論が始められている。

「現代社会における理想や幻想の解体は、現実認識の進化によって自己や世界をあるがままに必然的なものとして冷静に受容することと並行して起こっており、「スピノザ的叡智の態度である、義務論の存在論への還元、禁止の合理的知への還元」として現れている。」[148]

 のっけからこうこられると、どうも丸山真男の「現実主義の陥穽」あたりが思い出されてならないが、それは兎も角として、樫村氏は「社会学ではこのようなスピノザ的態度が社会の中に浸透している現象を、「個人化」「再帰化」「医療化」「心理学化」などの用語で記述している」とする([149])。曰く。
 
「人と人を結合していた社会的倫理は「個人化」の時代では個人を拘束するものではなくなり、人は人の弱さを理解し自身の外傷は自身のセラピーによってケアするしかない。自分をいたずらに傷つけた彼の弱さは彼の心理的困難から来ているのだから。こうしてどこにも悪人はおらず、どこにも不幸を訴える相手またそれを保証する大文字の他者は見えなくなっている。今あえて不幸を訴え大文字の他者を強く希求すれば、そんなことをする人はパラノイアとなってしまう(さらには犯罪者か)。」[149]  

樫村氏は、再帰化・個人化は一部のエリートにのみ可能であり、「現在のようにグローバル資本主義が次々に「周辺者」を生みだす社会では、「例外」が多数者となっていく」とする。そして規律社会から監視社会へという転換(ポストフーコー風の)に言及した上で、「このような監視権力のもとで生産され、生き延びる多数の主体は「マクドナルド化した主体」である」とする。
 すなわち再帰化がマクドナルド化に簒奪されているというのである。またもや「マクドナルド化」だが、ここで言われている「マクドナルド化」とは次のようなものだ。

「「自分探し」と「癒し願望」(さらには心理学ブーム)は、社会規範や制度に頼れなくなった(「個人化」した)主体により現在求められていることであり、それは精神分析にとっては再帰的主体の可能性の条件であるのに、実質的には葛藤の性急な解消を求める「マクドナルド化」へと回収されている。私の精神分析の授業でも、学生が恋人ができるか教えて欲しい(=占って欲しい)といってきたことがあった。」[151]  

ここでは「葛藤の性急な解決」が「マクドナルド化」と呼ばれているのである。精神分析学にあって葛藤は文明人の宿命の如きものとして捉えられていたが、それが別様の態度(すなわち性急な解決)で人々に扱われるようになっているのだ。こうした状況から精神分析が明らかにできることとして次の二つが指摘されている。
マクドナルド化を生みだす社会状況は主体を危機に陥れるので再帰的主体化は困難である。 マクドナルド的主体は「動物化」(東浩紀)した主体や多重人格ではなく、「ポストモダン的ヒステリー」(ジジェク、斉藤環)である。これは単なる退行ではなく、神経症化―文明化を前提にした脱文明化(=大文字の他者の死)という高次の水準で起こっている。
 興味深いのはここでは「大文字の他者」は「文明化」と結び付けられている点である。 だがそれは差し当たって措くとして脱文明化がどう高次なのかについては、ジジェクを参照しつつ、リビドー構造の三つの形態として、プロテスタント的倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的なナルシシスト」があるとされている。

「最初の二者は、その底に自我理想を保持しているが、「病的ナルシシスト」では、象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、いかに成功するかの規則、他者を操るためのゲームの規則だけをしっているとする」[318]。

 また、「大文字の他者」の死がもたらす困難の別の例として、スピノザ主義的な善悪の棄却による善の狂信化=根源悪化や、他者との関係の困難による他者恐怖やその一つの帰結としての「新人種主義」があげられている。
そして樫村氏は、再びジジェクに依拠しながら、「スピノザ的認識がマクドナルド的主体の下で不断の同一化の道具(命令)として受けとられるしかた」が「中立的に見える知が権力(主人のシニフィアン)を隠しもち、大学の言説が超自我として機能している」と指摘し、その上で、次のように述べる。

「マクドナルド化の時代において、科学的言説はこうして超自我化した大学の言説として、主人の言説の欠如を埋めて機能する。知と権力を同一視するフーコーの生権力論は大学の言説の超自我化をこうして良く説明するが、そのすり替えという操作は記述できていない。  

「メランコリー」は、マクドナルド化すなわち不断の換愈的な同一化の運動からリタイアし、または最初から排除され、「倒錯」はマクドナルド的主体の外傷に対してオルタナティブな外傷との関係を構築する。「メランコリー」は愛され、「倒錯者」は嫌悪されている。がそれらはホモ・サケルの両面でしかない。」[157]    

実のところ評者には樫村氏の言う再帰性の意味するところ(とりわけ再帰性と葛藤の関係)があまり良くわからないのであるが、その上に不意にホモ・サケルにも言及され、議論がかなりアクロバティックなので追いかけるのが大変である。
 フーコーが「説明できていない」というのは要は、ラカン派精神分析学的説明を受け入れていないという程度のことであるようなので差し当たってここでは措き、ホモ・サケルを問題としたい。

ジジェクに依拠しながら樫村氏は「隣人としての近すぎる距離はコントロールできず、ジジェクのいうように、理解不能な犯罪者も受容可能なヒューマニズム的視線の同一化の対象となる難民も、生権力の同じ対象としての「ホモサケル」として同定される、そして彼らは外傷の異なる加工形式において人々を魅了する」としている。  

ホモ・サケルとはアガンベンによれば主権と対となる殺害可能な人々だった(『ホモ・サケル』以文社、2003年)。
 アガンベンはシュミットの主権に関する有名な定義「主権者とは例外状態において決定を行う者」を踏まえつつ、古代帝政ローマにおける主権の成立期から今日に至る例外状態と主権の関係の系譜を描き出す。
彼の診断によれば、今日主権的権力にとっての例外状態の範例となっているのは収容所である。アガンベンはフーコーが収容所を問題とせず監獄を問題としたことを批判する。というのも法の中に一領域として位置づけられている監獄の系譜学では主権のありようと結びついた「例外状態」の始原には遡りえないからである。
収容所へといたる、主権にとっての例外状態の原初に見出されるのはホモ・サケルと呼ばれる特異な性格(「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生、それが聖なる生である」という)を負わされた人間たちである。ホモ・サケルから収容所へといたる系譜をたどることでアガンベンは、西洋の政治が、ホモ・サケルをその原初形態とする、「剥き出しの生」(=ゾーエでもビオスでもない、文化と自然、人間と獣の間の不分明な生のありよう)の排除によって自らを構成してきたことを明らかにしようとする。
アガンベンによれば、生への配慮を行う生権力的な要素とはそもそも主権の本源的な権能に他ならないのである。

「剥き出しの生を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしているということである。さらに言えば、生政治的な身体を生産することとは主権権力の本来の権能なのである。」[14]
 
 『ホモサケル』連作においてアガンベンは確かに今日における生政治の帯びるある特徴をそれなりに説得的に示すことに成功している。
しかし、アガンベンの議論では生権力の問題が主権へと回収されてしまうためにフーコーがこだわり続けた権力の重層性の問題が見過ごされてしまうことになる。それゆえ、アガンベンによるホモ・サケルの系譜学は、アドルノたちによる『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)における野蛮へといたる啓蒙の頽落のごとく、生政治の必然的な顛末とされてしまうのである。評者の考えでは、現在性を捉えるには、アガンベンの議論を権力の重層性の中に今一度位置づけなおす必要がある。

フーコーの生権力論の理解としてアガンベンの考え自体にもこのような見過ごせない飛躍があるのだが、樫村=ジジェクの議論はそれにもまして短絡化された議論ではないだろうか。メランコリーや倒錯者がホモ・サケルであるとは一体どういうことであるのだろうか?
 性犯罪者などが容赦のない排除の対象とされているのは確かである(しかも痴漢取り締まりは数多くの冤罪を作り出している)としても「欝はこころの風邪」などということが語られる今日、それがアガンベンの言うようなホモ・サケルと同一視できるとは思われない。ホモ・サケルのインフレーションを押し進める前に、欝の統治がどのように行われているのかをもっとつぶさに見る必要があるのではないだろうか。
またアガンベンの言う主権と樫村氏の言う「大文字の他者」はどういった関係にあるのだろうか?興味深いテーマであるが樫村氏が論じているわけではないのでここではこれ以上突き詰めないこととしたい。ただし、主権論の確立した絶対王政期が「文明化」を押し進めた時期でもあったこと、は「大文字の他者」の「君臨」や「不在」に関わる諸問題を考える上で頗る重要であると評者は考えている(がこれは別の機会に論じたい)。
ところで、ポストモダンをめぐる議論についてしばしば感じることであるが、どうも歴史的なパースペクティヴを欠いている議論が多いように思われてしまうのだ。
そして、ここでの樫村氏の議論はその典型なのではと強く感じずにはいられないのである。 そして、そもそもモダンの捉え方が一面的なのではないだろうか?という疑念も湧き出て仕方がない。これは自分が歴史学の素人であることを省みずの放言であって、自戒としたいことなのでもあるが。

そもそもポスト(post)という感覚において歴史を捉える考え方というのは度し難くモダンなものだろう。しかし、こうした問題もここでは措いて、第5章における樫村氏の議論をさらに辿ることとしよう。

「「マクドナルド化した主体がポストモダン社会に適応した主体であるとすれば、そこからこぼれ落ちる例外的生が「メランコリー」である。社会学者のエーレンベルグは、ディシプリン、コンフリクト、罪悪感などの特性が見られる神経症の時代から、責任と行動、不十分さと恥といった特性が見られる欝の時代への現在の移行を指摘する。彼は欝とアディクションは、それぞれ未来がなく、モチベーションを求める時代の病であるという。彼によれば欝とアディクションのそれぞれに対応する、「欠損する人間」と「強迫的な人間」はヤヌスの双面である。精神病における欝の隆盛はプロザックのような強力な坑欝剤の出現と期を共にしており、それは、欝が精神分析の対象から離れて「気分の病」として操作されていくことを意味していた。さらに気分の病気は、モチベーションをもたないことによる「行動不能」の病気として社会的に読まれていく。精神分析的に見れば両者のどちらにおいても否定されているのは対象と対象関係である。そして、すべてを関係を持たずに即食べつくすように内化してしまうメランコリーと、即自的な享楽の対象がナルシシズム的な他者の幻影を可能にする(なので実際にはそれは「要求の対象」である)アディクション(後に詳しく見る)のどちらでも他者は否定されている。」[158]  

 ここで言及されている『自己であることの疲労』(La Fatigue d'etre soi:depression et societe, Poches, 1998)におけるエーレンベルグの議論はもう少し興味深いものだ(評者には異論もあるが)。それゆえ以下ではエーレンベルグの『自己であることの疲労』における議論をしばらくフォローしたい。

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(3)

1-2.

ともあれ、「政治のマクドナルド化」の背景に樫村氏は、「大文字の他者の不在」を見る。そして、ジジェクに言及しながら言う。

「主体がナルシズム的になればなるほど、主体はますます激しく大文字の主体を責め立て、その結果として大文字の他者に依存する自分の存在を愁訴する。「不平の文化」とは現代版のヒステリー症のことであり、その基本的特徴は、大文字の他者へ向けて叫び声をあげ、社会的不利益を被っているマイノリティに介入の手を差し伸べ、物事の道理をとりもどすように訴える。  

また大文字の他者なき世界のパラドックスは、このように、大文字の他者と呼びうる何かが、単なる象徴的フィクションではなく、「現実的なもの」のさなかに実際に存在していることの確信を追い求めようとする現象であると指摘する。それは一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存を生む。」[56]

「眼前で上演されているのは、新たな差異による利益を得ようとする人々による利益政治と、大文字の他者を代補しようとするテクノクラートの透明性へのパラノイア的欲望(マーケティング的世論などを生み出していく。社会のマクドナルド化を帰結する)、および自分たちが蚊帳の外に置かれているのではないかと「不平」を表明するパラノイア的メディアとオーディエンス(それはメディアそのものにも向かう)の欲望と消費なのである。」[57]

 この解釈それ自体はなかなか興味深いものである。「大文字の他者」の不在が、むしろそれへの絶望的な渇望をもたらす。それが一方でのシニシズム、他方でのパラノイア的な幻想をもたらしている。
こうした議論は、ネットの中でそこかしこにたむろし、跋扈しているいわゆる「ネットウヨク」あたりの分析にお手軽に使えそうにも思われる。
ちょっとしたニュースにも日本に対する中韓および売国奴の卑劣な陰謀を勘ぐり、その一方で、政治ニュースをあくまでもネタとして「シニカルに」消費しようとするネットウヨクのありようとは、「一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存」と見えなくはない。
たとえば、最近知ったことだが、ネットの中では「必死だな」というのが他人を揶揄する言葉として広く用いられているらしい。こうした言葉を用いる人々は自らが「必死でない」こと、すなわち対象に対して自らがシニカルであることを示すことに「必死に」なっている、と言えるかもしれない。このように一定の範囲でメディアに関する分析に使えそうな考えではある。 だが、こうした即席の「ネットウヨク」分析(のヨタ話)は兎も角として、 樫村氏は、ジジェクの議論に依拠することに満足するのではなく、ジジェクの問題点(=ランシエール的な政治の美学への「無理解」)を指摘し、ジジェク的な議論を踏み越えていこうとする。

「ジジェクにおいて、現実界は生体から切り離され、構造化された不在となり、最終的には空疎な空無となる。彼において現実界は心的現象として遡及的に生み出され、その構成の外傷的な瞬間は、社会的対立として外部に投影されるため、死の欲動の出現を代表象する。それゆえ彼にとって、現実界の空無を満たす「崇高な対象」は、魅了すると同時に嫌悪感を引き起こすものであり、ラカンが記述する「快感を与えるシニフィアンの力」を無視する。  

ジジェクは、この意味で、ランシエールの政治の美学を意味することはない。ランシエールの政治の美学は、美学が人々に与える力についての記述だからである。テレビと結合したポストモダン的ポピュリズムの隘路において現出する政治的なものをランシエールのいう政治の美学がどうつかまえうるかについて、ここで簡単に述べることはできないが、例えば、ドゥルーズが述べたように、強迫的な(転移)コミュニケーションの回路を断ち、非=コミュニケーション的な空洞や断続器を作るという逆説的な方法もその一つである。」[64]

 しかし、こう言われてもはたと困ってしまうほかない。というのも、このドゥルーズ的方法が現代の日本のメディア状況においてどういったことであるのか、そして言わずと知れた精神分析学批判の書である『アンチオイディプス』の著者でもあるドゥルーズの議論が樫村のラカン派精神分析学的臨床社会学の立場とどう切り結ぶのかについての言明もないからである。 樫村氏の『ネオリベの精神分析』を読めという注があるのみである(というわけでやはり読まないとダメらしいのでそのうち読みたい)。
それは兎も角として、こうしたことを述べた上で樫村氏は、公論としての「輿論」と私情としての「世論」が混在してしまったのが現在の日本の状況だという佐藤卓巳の議論に言及してこの章の議論をフィニッシュする。

 ここまでの議論を暴力的にまとめれば要するに
大文字の他者が「機能不全」あるいは「不在」になった=ポストモダン的状況 →大文字の他者を強迫的に求める→(1)大文字への不信・シニシズム(2)他者の他者を勘ぐる→政治のマクドナルド化・ポストフォーディズム化=私情と公論の混在 ということになるらしい。
 繰り返しになるがこうした議論が政治をめぐるメディアやオーディエンスの状況をある程度まで浮き彫りにしてくれるものであるのは確かだ。

 しかし、この章で「ラカン派的臨床社会学がこう考えたこと」にかんする評者の素朴な疑問としては以下の点がある。

①樫村氏はポストモダン=大文字の他者の機能不全としているがこの種の「ポスト」な主張を前に留保したくなるのは、例えばデュルケムの『自殺論』をはじめとしてこうした主張が際限なく繰り返されてきたのが近代だったのではないかということがあるからだ。
 アノミーもまた何らかの仕方での大文字の他者の機能不全だったのだとすれば、「大文字の他者」の失調や不在は何もポストモダンにだけ顕著なものではないだろう。
もちろん、ギデンズたちとともに、近代のラディカル化として「後期近代」を捉えることはできるだろう(評者は、いずれにしても単線的に歴史を捉える点で「ポストモダン」論と変わりはない、こうした考えにも懐疑的だがそのことはここでは措く)。
しかし、その際に「ポストモダン」はあまり適した言葉ではないように思われる。そして、いずれにしても樫村氏の言うところの今日の「ポストモダン的」な「大文字の他者の機能不全」、あるいは「大文字の他者の不在」とはどのような種別的な特徴を持っているのか?が問われる必要があろう。
もちろん予想できる答えはある。ポストモダンとは「大文字の他者」の危機が全面化・前面化した時代だ、というわけである。だがそうした場合、例えばエコロジーや平和運動、そして人権といった概念が、そして「欧米的な」ライフスタイルなどが歴史上かつてない規模で人々の間に広く共有されるようになっている事態は一体どう考えることができるのだろうか。
もちろんそうしたグローバルな思潮は場所やそこでの人々の慣習的な生活とはかなりの程度切れたものである。とはいえ、国民国家のイデオロギーにしても国民国家による時空間の編成と無縁で存在していたわけではない。そのことはラカン派臨床社会学的にはどう理論化されているのだろうか。
②「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論にかんする疑問は、例えばマルクスの『ルイボナパルト』における議論などと関連する、民主主義における代表=表象の問題(それが根源的に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題)とも密接に結びつくこととなる。 
改めて言うまでもなく、普通選挙権による代議制制度それ自体が「世論=民意」を汲み取る(それを製造する)装置に他ならない。
そしてこれまた改めて言うまでもなくそれはせいぜい20世紀になって一般化してきた制度に他ならない。それ以前には(またその後もこれ以外にも)別の諸装置が存在してきたのである。 このことは、これまた改めて言うまでもないが、国民国家の下での国民の統合の問題と密接に関連している。どうも樫村氏の言う「大文字の他者」とは国民国家の政治的・経済的・社会的・文化的統合を支える「掟」なるものを言い換えているに過ぎないようにも見えてならないのだ。代議制の問題は、国民の統治、あるいは国民主体の生産と再生産の問題と不可分に結びついている。
こうした観点から樫村氏の議論について感じずにいられないのは、代議制民主主義がその中に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題と、樫村氏が言及する「大文字の他者」に纏わる諸問題はどう結びついているのであろうか、という疑問である。 もちろんこの疑問への答えとしては、労使の階級的対立あるいは妥協を前提とした代議制民主主義のシステムが、ポストモダン的な個人化の進む中で、失調している、という答えが浮かぶ。だが、であったとしても、こうしたことと「大文字の他者」がどう関わっているのかあまり良くわからないのだ。諸主体を階級に属するものとしてしかるべく配置していた掟が「大文字の他者」なのであろうか?
代議制の危機は、ボナパルティズムやファシズムの問題を取り上げるまでもなく、今に始まったことではない。むしろこう言ってよければ、代議制民主主義とは、その当初から自らの危機を完全には悪魔祓いすることができない制度として存続してきたのである。
したがって、今までのあった危機と現在のそれとの比較を行うことが重要となるし、そもそも代議制システムと「大文字の他者」はどういう関係にあるのかを明確にする必要もあろう。その先にこそ展望も開かれうるのではないか。
そうしたことがなされなければ「大文字の主体の不在」にかんするラカン派臨床社会学的言説は、ネオリベ的主体の貧しさを突き抜けるよりは、漠然と「大文字の主体」への郷愁を語るものとして機能してしまうのではないだろうか?
③また評者の見たところ、ここでの樫村氏のラカン派臨床社会学的議論のより大きな問題点は、日本における戦後政治の問題性に一切切り込んでいない点にある。
近年の代議制の危機そのものは先進諸国に遍く見られるものであったとしても、日本におけるその独自のあり方もまた問われる必要があるはずだ。とりわけ日本の場合樫村氏の言うところの「政治のマクドナルド化」が従来型の自民党政治の断末魔の救急延命措置と結びつく形で導入されてきた経過があるのだからそれを問わなければ不十分と言う他ないだろう。
こうした観点から、小泉以降の自民党の総理たちがスペクタクルを提供しそこなってきたことの意味を考える必要があろう(それは2008年の時点でもある程度までは露になっていたはずだ)。

 また不思議なことではあるが「大文字の他者のポストモダン的不在」と対をなすはずの、戦後日本の「大文字の他者の現前」とは一体何だったのか?
ここでは何も語られていないのである(『ネオリベ精神分析』には書いてあるのかもしれないが)。自民党政治の存続を支えてきたものが戦後日本の「大文字の他者」なのだろうか?

 メディアの技術的発展ばかりではなく、一定の経済成長を前提とした利権の分配を基本とした自民党政治の失調が現代の日本におけるメディア政治やポピュリズムと密接に結びついているはずだ。それはアメリカの庇護の下で9条を保持したままでの冷戦遂行がなされた冷戦体制からなお流動的なポスト冷戦体制(もちろん東アジアでは冷戦が終結したわけではないがかつてと同じ形で存続しているわけでもないのでここでは「ポスト」という言葉を用いる)への移行とも結びついているだろう。

しかし、少なくともここでの樫村氏の「ラカン派臨床社会学的モノ語り」においては、そうしたことには触れられていない。また低成長時代を向かえながらグローバルな経済競争に曝され、人口減少や少子高齢化、といった難問を抱え、さらに財政悪化のなかで、既存の自民党的土建屋ケインズ主義を転換し、環境問題などにも対応しなければならないといった困難に直面しているなかでのポピュリズムやメディア政治とは一体何であるのかというこの国が直面している問題には触れられていないのであった。
 というわけでそうした一切合財が「大文字の他者の不在」という符丁の下に語られるとき、そうした「ラカン派臨床社会学的モノ語り」がなされること自体が一体何をしているのかということがどうにも気になってならないのである。
やや辛辣な言い方になり恐縮であるのだが、精神分析学的モノ語りによるメディア分析としては面白い部分もあるが、つまるところ、「政治的なるもの」に関わる分析としては、樫村氏はほとんど何も行っていないに等しいのではないだろうか。「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論においては国家諸装置の分析がほとんど不在である。それゆえ、それはラクラウなどへの言及にもかかわらず、頗る非政治的な文化主義的ポストモダン談義にしかなっていないように思われる。

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(2)

1.「大文字の他者の不在」とポストモダン

1-1.

まず、第1章「「ポストモダン的「民意」への欲望と消費:転移空間としてのテレビにおいて上演される「現実的=政治的なもの」」での樫村氏の議論を確認する。この章で樫村氏は、「民意のマクドナルド化」、「政治のポストフォーディズム化」といった用語によって、「大文字の他者の不在」が政治的なものに生じさせた事態を分析している。

「民意のマクドナルド化を端的に示すのは、今日の「緊急世論調査」の乱発であり、それは「世論」のマクドナルド化である。(中略)リアルタイムで審判が下され、消費者調査のように、政治行為の「商品」価値が値踏みされる。(中略)セブンイレブンの商品がリアルタイムの売り上げ情報によって品揃えを変えるように、政治もポストフォーディズム化する。」[39]  

たしかにネットなどを通じて乱発される「民意」の調査が、マスコミ報道のあり方とあいまって、政治を、大衆迎合的なポピュリズムやメディアでのパフォーマンスが支持率を大きく左右するメディア政治のほうへと押し流しているというのは、かなりの程度、そう言えるだろう。しかし、そうした当世流ポピュリズムや、メディア政治がどうしてあえて「民意のマクドナルド化」や「ポストフォーディズム政治」といった言葉で分析される必要があるのだろうか。
「ポストフォーディズム」については「グローバリゼーションとそれに伴う、アメリカンスタンダードの加速する資本主義が、アメリカ以外の様々な国の「規制緩和」をこの間強要し、社会の流動化を押し進めてきたことは、社会変容の正当化手段としての「民意」を多用/濫用させることになった」という説明がある。アメリカンスタンダード=規制緩和=「ポストフォーディズム」として良いのか疑問は残るがここでは問わない。樫村氏によってより詳しく示されているマクドナルド化の方を検討していくことにしたい。
 リッツアの『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版局、1999年)で言われているマクドナルド化の要素とは、「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」であった。一方樫村氏の言う政治のマクドナルド化とは、次のような「政治的なもの」の管理であるという。

「テレビという視覚メディアの受動性は、ハリウッド的スペクタクルの消費に見られるように、安全に出来事を鑑賞する場にオーディエンスを閉じ込めてしまう。 そしてそれは資本主義とテクノクラートにとっても都合の良いものである。彼らは「政治的なもの」の現出の際、それをゆっくりと議論するコストも惜しむ。彼らは、メディアにおける出来事のスペクタクル的消費と、そのつどマクドナルド化された「民意」=「世論」(そもそも「世論」とは新しい社会階級が政治ゲームに加わることを正当化するため、「理性」と「客観性」を担保に使用した手段)を乱発/濫発しながらその現実的なもの=出来事を「政治的なもの」とすることなく、なだめすかしやりすごし同意をとりつけながら、政治社会制度の再編と自らの権力組成へと利用されている。」[38-39]

このように「メディアの上演するスペクタクルなものへの封じ込め」による民意の効率的管理、これは効率性や制御の点でリッツアのいう「マクドナルド化」と樫村氏の言う「マクドナルド化」は無縁とは言えない。だが、問題なのは、昨今(とりわけ「小泉劇場」以後)生じている事態は、リッツァのいう意味でのマクドナルド化とは聊か趣を異にしているのではないかと思われる点だ。
すなわち、マクドナルド化は樫村氏が示唆するようなたんなるテクノクラート的な策動の産物なのではなく、それにもまして「政治的なものの危機」への対応という側面を併せ持っているのではないだろうか?殊にこの国、政官財の癒着に基づく利権構造を基盤とした自民党政権がバブル崩壊後も末期的な状態のまま続いてきた日本では。
もっとも樫村氏もそうした面をてんで無視しているわけではない。
樫村氏によれば政治のマクドナルド化とはまず「テレビ政治/欲動の政治」であるとされる。この「政治の欲動化は、象徴の貧困化や欲望の困難(消失)と連動している」のである(47)。「政治的なものの危機」は「大文字の主体の不在」化として捉えられている。
そしてこの「政治の欲動化」によってジャーナリズム界の、そして民意を背にした政治権力の、専門界への侵犯がなされる。さらに、そこには報道の競争を通じた画一化と、「争点報道型報道」から「政治報道を競馬のように解説していく」「戦略型報道」への報道の転換とそれによる政治的シニシズムの高進が見られる。とはいえオーディエンスはメディアべったりなわけではなく、メディアの「やらせ批判」、「捏造批判」へと向かう。等々。

こうした樫村氏の指摘する事態は興味深いものではある。一方で、メディア政治を通じた政治のネタ化とそれに迎合するポピュリズム政治、そしてそのシニシズムがある。他方では、メディア不信が強くある。
 だが、やはり問わざるを得ないのは、現在生じている事態とは、リッツアの言うような「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」といったことよりは、むしろその反対にそうしたことが頗る困難になっている事態ではないだろうか、という点である。
すなわち、戦後日本の自民党支配という「効率的で、計算可能で、予測可能な、制御」が危機に陥ったからこそ、樫村氏の言うような「政治のマクドナルド化」の動向が生じてきたのではないだろうか。代議制を通じた国民の世論の管理が失調していること、それゆえ粗製乱造の「民意」なるものに政治が左右されるという事態こそが現在(樫村氏の論文が最初に発表された2008年の時点においても)生じているのではないだろうか。
そして、こうした「政治的なもの」の危機を樫村氏のようなやり方で「大文字の他者の不在」として理論化することには大きな問題があるのではないか?というのがここでの評者の基本的な見解であるが、この点には後で立ち戻る。

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(1)

0.はじめに

 この著書は言わずと知れた気鋭のラカン派臨床社会学者の樫村氏が『現代思想』等々で書いた論文を集めた論文集である。宇波彰先生(宇波彰現代哲学研究所 主席フェロー)より、樫村愛子氏の近著『臨床社会学ならこう考える』を「書評せよ」とのご指名があり、早速購入し、読んでみた。
ただし、あらかじめ断っておくが評者は樫村氏の著作の良い読者ではない。『臨床社会学ならこう考える』以外の著作の議論をきちんとフォローしているわけではない。それゆえ、残念ながら評者の理解力と不勉強のせいだろうが、この著作における樫村氏による議論をどこまで理解できたのかといえば心もとないものがある。
いや正直に言えば心もとないどころか端的に何を言っているのかさっぱり理解できないところも数多くあった。だが、こうした点については余計な見栄を張らず浅学菲才の恥を忍んで、評者の素朴極まりない疑問をあえて率直に提示したいと考える(『ネオリベラリズムの精神分析』をきちんと読み直すことは今後の課題としたい)。
この著者の各論文に通底する中心的なテーマを要約すれば、現代社会における「大文字の他者の不在」あるいは「大文字の他者の死」ということになるだろう。「大文字の他者」がポストモダンという時代の特徴として捉えられ、それがいかなる問題を生じさせているのかが様々な事例を通じて、「マクドナルド化」、「ポストフォーディズム」「再帰性」「心理学化」といったイマドキ風の用語をちりばめ、分析されているのである。この著書の副題である「生き延びるための理論と実践」の示すところとは、つまるところ「大文字の他者の不在」という状況を、「生き延びるための理論と実践」である。
ところで、一応確認しておけば、「大文字の他者」とは人間の欲望を構造化する象徴的秩序のことである。ジジェクはこう述べている(『ラカンはこう読め!』紀伊國屋書店、2008年)。

「「人間は<他者>として(qua)欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴的秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範にそむくものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。」[79]

あるいはジジェクはこうも述べている。

「そのしっかりとした力にもかかわらず、<大文字の他者>は脆弱で、実体がなく、本質的に仮想的存在である。つまりそれが占めている地位は、主観的想像の地位である。あたかもそれが存在しているかのように主体が行動するとき、はじめて存在するのだ。その地位は、共産主義とか民族といったイデオロギー的大義と似ている。<大文字の他者>は個人の実質であり、個人はその中に自分自身を見出す。<大文字の他者>は、個人の存在全体の基盤である。それは究極の意味の地平を供給する評価基準であり、個人はそのためだったら生命を投げ出す覚悟ができている。にもかかわらず、実際に存在しているのは個人とその活動だけであって、個人がそれを信じ、それに従って行動する限りにおいてのみ、この<大文字の他者>という実質は現実となるのだ。」[28-29]

樫村氏によれば、このような人間の欲望を構造化する象徴的秩序としての「大文字の他者」の「不在」が生じているのであるが、氏の議論の特徴は「大文字の他者の不在」、「大文字の他者の死」論をネオリベラリズム批判と結びつけ展開している点にある。

「(前略)ネオリベは何ら宿命ではなく宿命(市場の法則)であるかのようにでっち上げられた貧しい政治であるとしても、直ちにそれを破棄できないような、現代社会にそれをはびこらせる条件や情況があるとすれば、それに着目しなければオルタナティヴの成功の条件は作れない。ネオリベを隆盛させている条件や情況を現実にどのように変えうるのか、別のものへと接合できるのかを、特に主体および主体と社会の接合の観点から考えるというのが私の行おうとしている作業である。」[29]

ネオリベ批判とネオリベの蔓延る現状の打破という樫村氏のこのような目論見そのものには全面的に賛同したい。しかし、その目論見には賛同するものの、樫村氏の言う「大文字の他者の不在」がどういった性格の事態であるのかいまひとつ分からないため、悪くするとラカン派臨床社会学は「失われしもの」への郷愁を語る言説、喪失からの癒しを語る言説のように見えてしまうのだ。
もちろん郷愁や癒しの語りであっても、それはそれで、良いのであるが、問題は「大文字の他者の不在」は樫村氏の言うポストモダンという段階においては不可避のものであるのか、それともネオリベによって「不在」にさせられてしまったのか、がはっきりしない点である。またそもそも樫村氏の言う「大文字の他者」が何であるのかもいまひとつ腑に落ちないのであった。こうした点については後で再び述べることとしたい。
ポピュリズムやうつ、アディクション、リアリティショウ、ケア、教育問題、宗教問題など取り上げているテーマはキャッチーなものが多く、すこぶる興味深いものである。しかし、真に遺憾ながら、今回主として論及するのは1章と5章に限定したい。いずれ機会があれば別の章も論じてみたいが今回は主な議論の対象として取り上げることはしない。 このように論及の対象を絞った理由は、評者の力量の問題もさることながら(リアリティショウは一度も見たことがなく、また宗教問題などにも疎い)、対象があまりに多岐にわたるので議論が拡散して、とりとめないものとなってしまうからだ。それよりも、論及の対象を限ることでその分樫村氏の議論の内容をより丹念に検討することを選びたい。
 

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