宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

小林清親展を見る

 去る3月11日に、町田市立國際版画美術館で、「清親 光線画の向こうに」を見た。小林清親(1847~1915)の作品を年代順に追うことのできる展示である。清親は浜名湖西岸の新井の関所で働いたり、その近くの鷲津の農家の娘と結婚するなど、静岡県と多少のつながりがあり、静岡県立美術館には、彼の多くの作品が収められていると聞く。また、私は1998年に静岡県立美術館で開かれた「明治の浮世絵師 清親」展に行き、そのときに求めた図録が手元にある。
 今回、町田で開かれた清親展で、私が特に注目したのは、「田母野秀顕君之肖像」である。図録に収められている岩切信三郎の解説を引用するならば、この作品は「奇跡的に」この美術館に収められているのだという。この肖像画は、「福島事件」で「国事犯」とされた人物を描いたものである。岩切信三郎のことばを引用するならば、「福島県令三島通庸が、自分の方針を批判し従わない自由党員を弾圧し、河野広中、田母野秀顕、平嶋松尾等6名が政府転覆の国事犯として投獄された」のが福島事件の結末であるが、小林清親は、その「国事犯」のひとり田母野秀顕の肖像を描いたのである。版元の原胤昭は、軽禁固3月、罰金の刑を科された。これは、明らかな言論弾圧である。その当時の小林清親が、出版元の原胤昭とともに、きわめて先鋭な反権力的意識を持っていたことを示している。岩切信三郎の言うように、これは「自由民権運動の資料」であるが、それと同時に、小林清親の作品の政治的なものが見えている。彼は伊藤博文など当時の政治家の風刺画も描いている。現代の「言論弾圧」の時代に、彼らから学ぶべきことが多い。
 この展示は「清親 光線画の向こうに」というタイトルである。「光線画の向こうに」ある、1880年代の清親の政治性、反権力的立場、反骨の思想が明確に示された、高い価値のある展示である。(2016年3月14日)

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扶余の記憶

 去る2016年1月下旬に、韓国の扶余(プヨ)に出かけた。扶余は、ソウルから南へ200キロメートル行ったところにあり、6,7世紀に百済の都があったところである。前日まで大雪だったそうで、かなりの雪が積もっていた。またきびしい寒さが続いていて、そのためか観光客の姿はほとんどなかった。扶余の観光地で最も有名なのは、百済時代に建てられた定林寺の跡である。  
 私は出かける前に、小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』(六興出版、1986)を読んだが、この本の著者は終戦まで平壌博物館の館長だった方である。著者は最初1922年に扶余を訪れるが、そのとき見た定林寺跡について、次のように書いている。「かなり広い寺跡で、南に五層の石塔が聳え、北に離れて大きな石壇上に座像の焼けただれたような石仏が存在していた。」(p.181) つまり、1922年には、定林寺跡には、石の五重塔と大きな石仏しかなかったのである。しかもそのときは、その寺が何という寺なのかも不明であったという。小泉顕夫によると、1943年になってようやく「定林寺」であることがわかったが、それは藤沢一夫という研究者の努力によってであった。藤沢一夫の名は現地の説明文にも記されてある。
 百済の史跡を訪ねるのは、もちろんたいへん興味のあることであったが、私はそれ以上に『朝鮮古代遺跡の遍歴』で記されている「内鮮一体化運動」が気になった。「内鮮一体化」とは、日本が朝鮮の植民地化を進めるときのスローガンであった。日本人と朝鮮人とを同一化しようとするものであるが、同一化といっても朝鮮人を日本人に同一化させようとするものにすぎない。
 当時の日本は、朝鮮人を日本人に「同化」させるために、いわゆる「皇民教育」を行なった。その一環として「神社参拝」が強制された。ソウルにあった朝鮮神宮は有名であるが、ピョンヤンにも「平壌神社」があった。朝鮮神社の祭神は、天照大神と明治天皇であり、朝鮮の民衆とは何の関係もない。趙景達『植民地朝鮮と日本』には、平壌神社に参拝させられる朝鮮人の「陸軍兵志願者」の写真が収められている(P.205)。
 そして当時の朝鮮総督府は,1940年ごろ、扶余にも「扶余神宮」を造ろうとしていたことが、小泉顕夫の著作からわかる。それは遺跡を破壊して造られる予定であったらしく、著者たちがその破壊の進む前に、調査をしようと努力したことがわかる。しかし戦争が激しくなり、扶余神社を建てることなど不可能になって、やがて終戦になる。現実に扶余神社は建てられなかったが、当時の日本は、「内鮮一体化」と称して,実は日本の「神」への信仰を強制したのであり、それはけっして「一体化」にはなりえなかった。(2015年1月30日)

参考文献

小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』六甲出版、1982
趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

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金時鐘『朝鮮と日本に生きる』とチェジュ島

 2015年の大佛次郎賞は、金時鐘の『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)に決まった。大いに慶祝したい。この本は,岩波書店の雑誌「図書」に連載されていたものをもとにしている。私は「図書」連載中、毎号欠かさずに読んだ。
 本書は、韓国チェジュ島(済州島)において、1948年に始まった,いわゆる「4・3事件」を重要なテーマにしている。チェジュ島に「皇国少年」として育てられた金時鐘の体験と、政治的事件とが重なって記述される。個人の記憶と集団の記憶が交錯し、極度の緊張感が伝わってくる。
 4・3事件は、チェジュ島の民衆の反権力の闘争である。本書を読むと、権力の力と民衆の力の衝突がわかってくる。ソレルは,その『暴力論』で、「力が上から下へと働くときは権力であり,下から上へと働くときは暴力である」と述べたという。(寺山修司は,このソレルのことばを繰り返して引用している。)4・3事件は、まさに権力と暴力の激突した事件であった。最近刊行されたムン・ギョンス『新・韓国現代史』(岩波新書)でも論じられている。
 しかし、「4・3事件」がどういう事件であったかを知っているひとは多くないであろう。数年前、チェジュ島を訪れたとき、タクシーで「4・3記念公園」に行ったが、運転手に「どうして日本人のあなたがこの事件のことを知っているのか」と、何度も聞かれた。私が金石範の長編小説『火山島』を読んで知ったと答えると,それは韓国でも訳されていると教えてくれた。
 4・3記念公園は、公園という名称であるが,実は博物館でもある。日本語のパンフレットも置いてある。庭には、ベルリンの壁の一部分が置かれてある。南北朝鮮の統一を願うという意味かもしれない。この公園は,進歩派であったノ・ムヒョンが大統領の時代に作られたものである。
 チェジュ島に行く機会があるひとには、金時鐘の本書を読んでおくことをおすすめしたい。また、4・3記念公園をぜひ訪れてほしいと思う。(2015年12月30日)

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IS問題と聖ゲオルギウス

 ヨーロッパに行くと、いたるところに「聖ゲオルギウスとドラゴン」の像がある。1980年代に,私はギリシアのテッサロニキの土産物屋で、小さなイコンを買ったが、あとで見るとそれも「聖ゲオルギウスとドラゴン」の図像であった。2015年10月に私はプラハに行ったが、王宮の広場に「聖ゲオルギウスとドラゴン」の銅像があり、またその近くにある「聖イジー聖堂」の「イジー」が、ゲオルギウスのことであるのを知った。
 多くのばあい、ゲオルギウスは馬にまたがり、長い槍でドラゴンを殺そうとしている。この構図は,ルネサンス以降の多くの作品でも踏襲されている。またそのドラゴン退治の場面には,一人の若い女性の姿があるのが普通である。
 ゲオルギウスは、紀元3世紀の人で、キリスト教の伝道に努めたが、ローマ軍に捕らえられ、鋸で切られて処刑されたと伝えれている。ゲオルギウスについては、さまざまな伝承があるが、そのなかで最も有名なものは、彼によるドラゴン退治である。若い女性を毎年食べに来るドラゴンを退治した話は,スサノオの八岐大蛇退治の物語と似ている。その伝承に従って、「聖ゲオルギウスとドラゴン」の図像では、若い女性が、ゲオルギウスのかたわらに立っているということになる。

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焚書坑儒の反復

 去る2015年9月13日に,私は静岡県立美術館で「富士山-信仰と芸術展」を見た。富士山がいかに日本人の信仰・芸術とかかわっているかが少しわかった。また、富士山を描く絵は、雪舟が原点になっていることも知った。雪舟は,富士山を向かって左の方に小さく描き、右側には海を描いている。その雪舟の作品は失われたが,残された模写が展示されていた。その後の富士山の絵の構図は、ほとんどこの雪舟の作品の踏襲・模倣である。雪舟の作品の反復が繰り返され、その反復そのものが,「富士山像」の集合を作っている。そこでは反復が芸術作品の原動力になっている。
 もちろん、そのような反復を否定するところにも芸術は成立する。長沢廬雪が描く富士山は,あまりにも険しく聳え立っていて、人が登れる角度ではない。廬雪は雪舟を否定することによって、新しい富士山像を描いたが、それもまた反復の変形である。反復は否定されてもなお反復である。そのように,反復の力はきわめて大きい。

 しかし、「困った反復」もある。10月27日から、東京国立博物館で「始皇帝と大兵馬俑展」が開かれる。また、鶴間和幸の『人間・始皇帝』(岩波新書)も刊行された。この本は最新の研究成果を取り入れた始皇帝論で、たいへん面白い。
 この本のなかで,鶴間和幸は「焚書坑儒」について,次のように書いている。「始皇帝は大臣たちに議論させた。丞相の李斯は博士らが<古をもって今をそしる>のは、人民を惑わすものであると強く非難して焚書令を提案した。李斯は<故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る>ことを<古(いにしえ)を以って今をそしる>と判断したのであろう。かれは徹底して博士の動きを封じ込めようとした。今の法令さえ学べば古の学問は必要ないとして、<もし欲して法令を学ばんとするあらば、吏をもって師とせよ」、博士に師事するよりも官吏に師事せよという命令まで出している。」(p.149) 現代の「博士」である日本の憲法学者のほとんどが、安保法制は憲法違反であるという意見である。しかし、政府は「学者の意見よりも政府の判断が正しい」という立場で、法案を強硬採決した。これは「吏をもって師とせよ」の現代版であり、始皇帝の時代の反復である。学者の意見が不要ということは,現代の「焚書坑儒」そのものではないか。(2015年10月6日)
(お断り。『人間・始皇帝』からの引用では、一部の漢字をかなにしてあります。)

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