FC2ブログ

宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

フーコー『言葉と物』読書会(最終回)の報告とラカン『セミネ-ル11』読書会のご案内

フーコー『言葉と物』読書会(最終回)の報告とラカン『セミネ-ル11』読書会のご案内

宇波彰先生を中心とするフーコー『言葉と物』第5回目の読書会の合宿を、3月18日(日)、19日(月)の両日、富山県氷見市の民宿で行いました。この合宿は、氷見市在住のメンバーの古川さんの手配で実現しましたが、富山ならでは美味しい肴を食べ、また19日(月)は富山大学・教員の小倉利丸さんにも参加いただき、楽しい時間を過ごすことができました。18日(日)はフーコー『言葉と物』(最終章-第10章)の読解をおこない、今回は時間的余裕があったため、19日(月)は『The Idea of Communism』(Coustas Douzinas and Slavoj Žižek編、Verso、2010年)を取り上げ、検討しました。
今回は、『言葉と物』読書会の最終回でしたが、「この会を今後どうするか」ということが検討され、参加者多数の意向により、今後はジャック・ラカンJacques Lacan『Livre XI, Les Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse [1964],Seuil 1973』(『精神分析の四基本概念』小出浩之ほか訳、岩波書店、2000年)の読書会へと移行することになりました。まず、この読書会のご案内をさせていただきます。
日時:7月28日(土)15:00-21:30、7月29日(日)9:30-15:30
会場:中野・アソシエ
テキスト:上記(フランス語原書はAmazonで入手可能)
読解箇所:
28日(土)15:00-18:00:Ⅰ破門
28日(土)19:00-21:30:Ⅱフロイトの無意識と我われの無意識 発表(3人)
29日(日)9:30-12:00:Ⅲ確信の主体について 発表(3人)
29日(日)13:00-15:30:Ⅳシニフィアンの網について 発表(3人)
今回は宇波先生の発案により、同一読解箇所に関して3人がそれぞれの主張点を発表してもらうことになっています(もっとも大それたものではなく、眠気覚ましの「刺激的」要素のほうが大きいのですが…)。

参加ご希望の方は、meisan46@kind.ocn.ne.jp(吉沢 明)までご連絡ください。

■フーコー『言葉と物』(最終章-第10章「人文諸科学」)読書会の報告
ミシェル・フーコーのテキスト・クリティークにおける博覧強記と読解の腕力に関してはこの書物に関しても驚嘆の連続で、最初はよく分からない面もあったが、第6章の「十七・十八世紀」(邦訳P233)の図式あたりからなにやらフーコーの体系的意図が段々見えるようになり、それ以降は割合スムースに読解が進んだ印象がある。古典主義時代の表象の限界を指摘すること、それも重農主義時代を境にその認識のあり方が大幅に転換すること、その指摘において『言葉と物』の中にすでに我々は1970年初頭に始まるフーコーの生政治の概念の萌芽形態をすでに読み取ることができるように思える。そのことは第10章で次のように語られている。「つまり範疇は[…]生命と労働と言語の経験的で実定的な諸領域(そこから人間がありうべき知の形象として歴史的に分離された)を、距離を置きながら、人間の存在様態(表象が認識の一般空間を規定することをやめた日以後[古典主義時代の後で]成立した形においての)を特徴づける有限性の諸形態に結びつけるのである」(P384)。ここに端的に、フーコーの生政治の認識の台座を読み解く「生命と労働と言語」、「経験的で実定的な諸領域」、「人間の存在様態を特徴づける有限性」などのキー概念が現出している。まさにこのキー概念を基礎に人間の「生」のありようとその歴史を突き止めるフーコーの認識パラダイムが成立している。この点でフーコーの認識方法において一貫して重要なことは、「人間は本性において何であるかの分析ではなく、むしろ、人間がその実定性においてそうであるところのもの」(P374)を突き止めることである。この見方をおさえれば、フーコーの言説の読解のコツを掴んだように思える。
第10章は、率直に言えば、参加者大半の感想であるように、これまでの記述の繰り返し(要約)の色彩が強く、その意味ではやや密度は低いという印象を受ける。
振り返ってみるに、フーコーの著作の中でも「難解」と言われている『言葉と物』をとにかく5回(二日制)にわたって読破したことは、我々にはかなりの知的蓄積にはなったと思われる。今後とも「難解」と言われる思想書にぶち当たっていきたい。

付記:そうは言うものの、「フーコー読書会の場合ですが、誰かが報告してそれで終わりでしたが、この方式だと聞き流してしまうおそれがあるようにも思います」という、宇波先生の上記「3人発表」案の指摘にあるように、私などはちょっと寝てしまったこともあり、議論として必ずしも充分な密度を保てたわけではないことは補足しておかなければならない。

(吉沢記)

PageTop

美少女は生きているか 山田宏明『美少女伝説-レポート1968慶応大学の青春』 (情況新書2011年)

 この本を読むのは、かなり照れが先立った。当然自分の知っている人物が登場するはずであり、その関わりでコメントする以上ある程度自分も個人史を語らなければいけないと思ったからだ。読んでいくと、I君、Iさん、Oさん、Bさんが登場する、もう赤面するぐらい恥ずかしくなる。その点で、そうした照れをあえて封印して自分の個人史を語る著者の根性には敬服するばかりだ。ただ、僕にとっては惜しいことに、舞台となっている文学部と、僕の属した経済学部の運動の間にはあまり交流がなく、こちらが女性と縁遠かったこともあり、「美少女」の(実)像とどうしても切り結ばない。その点で「美少女」の像-内実を通して運動のある側面を描く著者の手法の根源にやや迫れていないことは許してほしい。
 本著は物語=歴史(history)であり、“奇妙な時代”(時代)と「美少女」の「転落死」(恋愛)の絡み合いの中で「美少女伝説」の内実を解き明かそうとする試みである。“奇妙な時代”がなければ、「美少女」の出会いもなければ、「転落死」の内実をここまで問い詰めることもなかった。その点では、時代と恋愛が織りなすある情景が浮かんでくる。不謹慎な表現を許してもらえれば、「美少女」の死が自殺であればまだ区切りはつけられたのに、しかし「転落死」であることにより、「美少女」の24歳までの、著者にとっての生のある「意味づけ」は不明のまま先延ばしされてしまった。それも厄介なことに、それが「深酒と恋愛関係のもつれ」の結果であると「推測」できるようなことであれば、棘が喉もとに突き刺さったままである。68年の運動に立ち返ることによって、棘を取り去り、少しは「スッキリ」させたいというのが、著者の原初的動機であるように思われる。それはよく理解できた。
 その点でいうと、まず「少年」と「美少女」の関係については何か言うつもりなどはなく、むしろあまりに微笑ましくてそっとどこまでも見守ってやりたいという気持ちになる(「チャチャ」を入れることなどトンデモないことだ!)。もちろんそういう受け取り方だけであれば、著者にとっても単なるセンチメンタル、あるいはノスタルジアの域を出ない。
 だから、「レポート1968慶応大学の青春」という副題をつけたことからもわかるように、時代と恋愛の絡み合いの中での生の昇華、燃焼を通して運動の意味を描くことにもう一方の狙いがある。「少年」と「美少女」が運動と協働的営為としてどう向き合ったのか、それとの関わりでこの社会の何と格闘したのかが、そこが物語=歴史(history)として問われる。
ただ、率直に言うと「レポート1968慶応大学の青春」などよりも、男女の関係、エロスの関係をむしろ徹底して描いてほしかった。運動も時代-風俗の一端であり、そこに男女の関係があったとすれば、そのことを描くことで運動の一側面をインプリシットに言及することはできたと思われるからだ。僕には「美少女伝説」を小説として取りあげてもらったほうが面白かったかもしれない。

 「美少女」は「…あなたもそうでしょう。そんなにあっさり過去を捨ててはダメよ。あたしは絶対に大企業に入らないつもりです」と、過去にこだわり、「ブルジョア的価値」に基づいた生き方を拒否して、小企業への就職を選択し、同時に彷徨を重ねる。それは、彼女なりのこの社会への抵抗の証であったかもしれない。「少年」とのやり取りは、ある緊張感をもって進行する。両者ともスンナリとこの社会へ溶け込んだわけではないだろうし、抵抗の切実感は我々に伝わってくる。こういうやり取りもあったのかと、感得させられる。
 でも残念ながら「少年」と「美少女」は、肝心のこの社会-諸制度、家族等-の何と闘ったのか、そこがもう一歩よく分からない。それが何に起因するのか、はたと考えてしまう。たぶん、そこで想起されるのは、早稲田、中央、明治などの運動の雰囲気とは圧倒的に異なる「慶応大学の運動」のもつ飢餓感(飢え)の欠如である。そのことに伴う自分の限界を考えると、偉そうには一切語れない。もちろん全部が一様にそうであったわけではない。でも68-69年の「全共闘運動」が所詮「学生たちの運動」であったに過ぎないように、そしてそれ以上に「慶応大学の運動」が所詮「ブルジョア子弟たち」の運動であることを自己嫌悪の念を抱いて思い起こす。「ブルジョア子弟」の運動だから悪いなどというつもりはないが(あのイタリアの「ロッタ・コンティニュアLotta Continua」の活動家もそういう側面を色濃く刻印していた)、でもシモーヌ・ヴェーユが出自を踏まえて「どうやっても労働者になれない」という自分の現状に絶望して、苦悶したような格闘性には欠けていた。
 ここでも登場する68年の「米軍資金導入反対闘争」なんていうのは、どうにもいけ好かない。運動というのは自分たちの内部から生起するものであるし、どんなテーマでも運動の可能性をもっており(政治利用主義ではなく)、その外に身を置いて語ることは慎まなければならない。それでも、この闘争はどこか時代の流れに単に便乗して起きたところがあり、内発的なものとはいえなかった。「知り合いのフロントの活動家が鼻血を出し、眼鏡が割れて、憔悴した様子で教室の隅に座り込んでいる姿を目撃したりした」とは、たぶん僕のことではないかと思う。本当に、二重三重に情けない気分だった。
 まずは、圧倒的な「スト反対派」の学生の存在、僕が鼻血を出したのは彼らに追われてぶん殴られたからである。「米軍資金導入反対闘争」は「自己を「正義」の側に置き」それをバネにする運動でしかなく(いわば正義の二分法に基礎を置き、政治力学を発動する「代々木系」的な論理)、もともと大衆運動として展開できる論理はきわめて弱かった(もちろん運動の基盤も)。どんな運動もナイーブな動機が原初であるけれども、それを自分たちの存在と突き合わせて展開していく衝動(欲求)には乏しかった。これがまず第一点。上記と大きく関わるが、運動自体のインターナショナリズム性の欠如。「インターナショナリズム」なんていうと少し仰々しいが、もともと慶応の「学生」には他大学の学生に比べて学生という意識が極めて希薄であった(外からのイメージも、もちろん一様ではない)。それは、東大(一橋)を落ちて慶応に入った学生のコンプレックスと慶応高校出身者の「慶応愛校(エリート)主義」が結びついて第二次社会的ステータスを確保しようとする慶応独特の「義塾排外主義」を形成しているからである。これはおよそ学生運動のもつインターナショナルなイメージとは敵対するものであり(「スト反対派」の学生が多いのは運動の論理の貧困さとは別にこれが大きな要因)、これでは他大学の学生、労働者と外延的に結びついていく契機はない。どこまで可能性があったかは別として、本来、自分たちの置かれている産業予備軍の立場と対照させて提起すべき性格のものであった。残念なことに、当時関わった運動参加者のかなりの部分にもその枠組みを突き崩そうとする衝動はなかったように思える。第三に「塾監局」を占拠した「○○派」の行動もインターナショナル性という点では多少の共感はあれども、とてもお付き合いできない面を感じた。どう見ても、あの大学の実状とは全くそぐわないからだ。所詮、どこからか借りてきた「革命思想」の外部注入でしかなく、「身振り」の行動でしかなかったことはあまりにはっきりしている。
 ただ、僕も偉そうなことはいえない。初期マルクスなどではなく、『資本論』を勉強して運動に参加したから他の活動家に比べれば、「正統派」活動家であるという自負はあった。でも、状況のほうがアレヨアレヨという間に先に進んでいくと、直感的にしろ、自分が何がしかの構想力をもってその状況に対応しているわけではなく,どうも既成の政治的言語に寄りかかって(乗っかって)発言(行動)しているのではないかというおぞましさを覚えるようになった。どちらかといえば「ダサイ」活動家の部類に属していたから、あのS.M君のように身体性を賭けて状況を切開する鮮やかさもなかった。そのおぞましさは今でもコンプレックスとして引きずっている。
 そこで問題は、あの“奇妙な時代”をどう語るかである。「奇妙な」とは二つの意味で捉える。
1)誰しも「自分の運動参加に内的論理があったのか」と問われれば「ノー」と答えざるをえない運動の「熱病性」(特にその後の「沈滞」と比較したとき)
2)高度資本主義とそれに伴う「ポストモダン」状況と、日本社会の戦後処理をめぐる決着の曖昧性(天皇制の残存と社会的権利を自ら獲得した経験をもたない「国民」であること)の複合状況であった-“奇妙な時代”(今なお続く)

 前者の1)は別に否定的に捉えることではなく、運動にはそうした要素はどこまでも付きまとう。問題は後者の2)で、この点で「68-69年全共闘運動は一体この社会の何と対決したのか」と問うと、よく分からないところがある。確かに高度資本主義とそれに伴う「ポストモダン」状況における近代性の問題を提起した。近代技術の問題、大学の社会的役割等。その点で、丸山真男は「近代性」の権化として槍玉にあげられた。しかし、東大医学部・青医連の問題提起を除けば、ほとんどがヨーロッパの思想(運動)の輸入的解釈で、独自性・独創性は認めがたい。日本社会の戦後処理をめぐる決着の曖昧性がこの社会の構造を今なお(この2011年でも)規定しているにもかかわらず(例えば、戦後政治体制、沖縄基地問題)、それを根幹的問題として問うことはなかった。だから、68-69年全共闘運動は、この(日本)社会の核心に当たっていない、この社会と対決することなく素通りした、その点では思想的には貧しかったという評価をいだく。最終的にあったのは、抵抗原理としてのヨーロッパ移入の「マルクス主義」の錦の御旗である。
 僕にとってさらに問題なのは、68-69年全共闘運動も含めた「ラディカル」派の一部はマルクス主義を標榜しながら、現実には肝心の「資本主義批判」としての現実の労働問題への関わり、あるいは〈労働〉という根本命題の社会への具体的な問題提起という意味では構想力(訴求力)に甚だ欠けていたという点である。その点が、運動が今日まで内部的に蓄積されなかった大きな要因であり、今日の非正規労働の問題に関してこの社会の現状を踏まえた具体的な対応策をほとんど提出しえていない理由であるように思う(もちろん「身振り」としての資本主義批判はするけれども)。このことは僕が70年代イタリア議会外左翼の運動を研究していく中で痛切に感じるようになった。この「情けない」現状はもちろん自分の問題でもある。

 だから、68-69年全共闘運動に関して日本社会の構造を踏まえた総括をすることなく、ある種の「革命幻想」に訴えて、それだけを呼び起こそうとする諸君には僕は批判的である。もちろん当時運動を本当に実質的に担った人たちが人生「最後の旗印」を掲げて行動したい心情はよく分かる、そうした人たちもある程度知っている。それでも、現前に拡がっている具体的問題への構想力が全てだから、今なお抜きがたく存在している「革命幻想」に伴う状況認識はもうやめようと、言いたくなる。これに「身振り」のラディカリズムが加わると最悪である。


PageTop

戦後日本社会の出自…(2)

かくのごとき日本社会の主体性のなさに、戦後、日本人は一体何をやって、どういうアイデンティティを確立しようとしたのか、根本的な疑問が湧く。またそれに答えてくれるのが、日独伊の憲法制定の比較検討を通じて戦後社会の成立(過程)の根本的違いを立証した石田憲氏の上記の著書である。この著作は、私の読解では戦後日本社会は憲法制定の段階で「既に勝負があった」と思わせるところがあり、旧日本社会党はどんなに平和主義を唱えても「天皇制」と根っこが切れてないから所詮それは中途半端にならざるを得なかったと感得させてくれる。 書評という形で全篇を紹介することが趣旨ではないので、また政治史の諸事実と歴史認識の方法論には詳しくないので、ここでは自分の問題関心にひきつけて著書から学んだ論点を中心に紹介することにしたい。
戦後の「保守主義」のイデオロギーの継承者であるデ・ガスペリ、アデナウワー、吉田茂の共通性(旧体制における「周辺」政治家、占領国との「特権的対話者」、戦後新体制を形成した現実主義者)を基礎に、憲法制定過程における彼らの言説(言動)に着目し、結果として生み出される憲法の特徴の差異を分析している。それによってわかることは、憲法制定に伴う社会の形成の出自がイタリア・ドイツ、日本の両者では決定的に異なることである。著者は比較政治の研究者だからその手法は当然といえば当然だが、その狙いはあくまでも、憲法がもつ実定法を越える上位概念としての規範性から憲法制定のあり方を捉えるとき、その中に現出する日本社会の構造的(主体的)弱さを抉剔することに置かれているように思える。
その特徴の違いを言えば、イタリア-社会権(労働権)、ドイツ-基本権、日本-平和主義である。イタリアでは「多くの政治家が社会権を重視したことから、新憲法の第1条は、共和国における「社会性」の基礎が労働にあることを明示して、労働の価値と権利を民主主義の根本にすえている。社会経済構造改革に力点を置く憲法が形成された理由には、「ファシズムの根は暴力だけに偏在したのではなく、社会的不平等を永続させた現実と意志にこそあった」という大政党間の共通認識があげられる」(石田)。ドイツでは「ナチ体制の強制的同質化が諸個人を圧殺したという過去を省みて、人間の存在や本性に由来する基本権が国家に優越すると考えられ始めた。基本権はとりわけナチズムの抑圧体制と徹底的に対決する機能をもつと期待された」(同)。日本では「独伊両国のように公平と平等をめぐる要求が憲法の主要課題として直接に提起されることはなかった。そもそも象徴天皇制にさえ違和感を示す為政者たちは社会経済構造の根本的改変を「国体」に反することとして敵視しがちになる。たしかに、「経済民主化」と非軍事化が連動する状況も存在したが、それは政治・経済・社会体制の改革というよりも、あくまで軍国主義に代わって平和主義が相対的に浮上したという側面が強かった」(同 傍線:吉沢)。
憲法制定の段階での日本と独伊両国と最も大きな違いは「敗戦直後の日本政府が主として政体の連続性にしか関心をもたず、情報を秘匿し、世論に訴えることもせず、選挙での争点化を恐れていた点であった」(同 傍線:吉沢)。問題は上記の『昭和天皇・マッカーサー会見』に関して言及した次の点にある。「[…]日本の場合は独占的管理を続けようとしたアメリカという単独の国際的要因と、国内において「国体護持」という文脈で形成された一つの政治勢力が組み合わさって、特異的な行動様式を作り出した。[…]単一の占領と一つの政治勢力はマッカーサー一人と昭和天皇一人に収斂していく様相を呈して」(同)いく。ただしその際「天皇制の維持という国内の至上目的は、戦勝国と近隣諸国から理解されにくい。このため、戦前との断絶を内外に示す必要から、性急に憲法改正が先行したのである」(同 傍線:吉沢)。ここに逆説的に第9条の「平和主義」が生まれる要因があった。著者の主張の白眉はこの逆説的な構造を解き明かしたところにある。つまり「日本の為政者は、政体の継続を社会権や基本権に優先させた。審議段階の公開の討議は「国体護持」の至上性を露呈させた反面、早期可決に向けて占領当局との協力が促進され、憲法草案のラディカルな内容も是認する結果をもたらした。逆説的な形で象徴天皇制と平和主義とセットになったことにより、抽象的であるにせよ軍国主義からの開放が闡明され、外へ向けてのバランスをかろうじて確保したと考えられる。しかし、近隣諸国との信頼関係が看過された分、国内的文脈を優先する平和構築が志向されていったといえよう」(同 傍線:吉沢)。乱暴な言い方をすれば、天皇制の残存と引き換えに逆説的に生まれた第9条の平和主義の一見する「ラディカル性」。「それでも第9条が戦前との断絶性を象徴する事項として理想主義的に解釈されていった原因には、第1条が有した戦前からの連続性に対する解毒機能としての側面を無視できない」(同)-著者の表現を用いれば「プラス」の「埋め込まれた政治的ベクトル」。その反面「天皇制に代表される内向きの一国主義は「外国人」の市民的権利に関しても閉鎖的対応を示していく」(同)。これは、戦後日本において一貫して諸外国から否定的に捉えられる側面を形成した。憲法に盛り込まれた「平和主義」とは、為政者に戦前の軍国主義との「断絶」の指向性は見えるとはいえ、かくのごとき内実のものであった。
それでは、日独伊の間で「敗戦とそれに伴う新体制の形成」において決定的に異なる土壌は何か、それは「国内レジスタンスの有無」にあると指摘する。イタリアにおいては反ファシズム闘争が展開されそれを反省的契機としたが、ドイツにおいては反ナチズムを戦後体制の基礎としたが、日本においては、殆どレジスタンスは存在せず、「敗戦直後における為政者は平和主義を主張しても、その殆どが国民に直接可否を問うことなく、戦前の「正常な天皇制」へ回帰することを志向しがちであった」(同)。
この点で示唆的なのがイタリアのファシズム体制の反省(経験)に基づいて憲法に反映された社会権の認識である。多少ともイタリア政治史に関わっているのに誠に恥ずかしいのだが、今回初めて共和国憲法制定のいきさつ(趣旨)を知った。「これが(注:「憲法起草に関わった人々は、国家が労働者を取り込んで管理するのではなく、個々人の権利として労働を高く位置づけ、その主体的連帯を保証する発想へ向った」)共和国憲法の第1条に反映され、国家形態を特徴づける基本的価値として労働の重要性が強調されることになった。労働は人格の創造的能力を体現するものと位置づけられ、社会関係を規定する「最高規準」にすえられた」(同)。「すなわち、左翼、カトリック双方ともファシズムの経験を通じて、敗戦という転換点から構造的矛盾に対する解決の新たな模索へと向い、それが新憲法制定のコンセンサス形成を助けていったのである」(同)。イタリアのあり方を一方的に持ち上げるのはもしかしたらバランスを欠くかもしれないが、それでも「何たる懸隔!」という感慨をもたざるをえない。日本にはおおよそ主体的、自主的に己が獲得した社会的構築物がない。「独伊両国においては、少なくとも国民の主体的選択として憲法が位置づけられていたのとは対照的に、吉田における憲法や民主主義の正当性は、国民に開かれているというよりも、天皇を中心に組み立てられ続けている」(同)。またそれに対応する「左翼」も「しかも社会党結成に際しては、戦争協力者問題が取り上げられながら、結成大会では「天皇陛下万歳」、「宮城逍拝」が行われており、精神構造の連続性を露呈させている」(同)。これでは、旧日本社会党が平和主義に基づいて「天皇制」のありようを根本的に問うことなど所詮不可能な話であった。
 またもや愕然とした気分にさせられる。カール・シュミットが「憲法制定権力」で中心に据えた、真の意味での憲法制定の際の人民peopleの「実存的意志」の発動などはどこにも存在しない。
最近イタリア近現代史研究会で「70年代イタリア議会外左翼の運動はなにゆえにかくも過激で、長期に持続したのか…」というテーマで報告する機会があった。闘争の主要な引き金的要因として、1.社会に対する労働の問題の提起、2.キリスト教民主党とイタリア共産党の歴史的妥協(1973年)を取り上げた。それは暴力ゆえに悲劇的な終局を迎えたが、それでもイタリア社会に内在する問題を根底的に問う側面はあった。今さながら労働の問題のイタリア社会に内在する根っこの深さを思い知らされる。
今また思い起こす。68-69年全共闘は丸山真男を「近代主義者」(私はそう思わないけれども)として罵倒し、研究室を破壊したけれども、結局丸山真男を超えられなかった。全共闘は上記の構造と正面対峙し、この社会に問題を提起すべきであった… 著書は綿密な考証で極めて説得性がある。もし著者が「日本社会の構造的(主体的)弱さを抉剔する」ことに力点を置いているならば、日本を中心に据えて(独伊は参照基準にして)その問題を新書としてまとめてもらえればと思う。

PageTop

戦後日本社会の出自…(1)

 石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』を読んで私には「旧日本社会党は天皇制のタブーの前に結局沈められた…」という思いが更に強くなった。それほどはっきりとした確証はないにもかかわらず、いつも冗談半分にそのことを周りの論者たちに語ってきた。それは、旧日本社会党は、語源の響きと異なりヨーロッパ型の分配的正義の社会民主主義政党では全くなく(それは残念ながら自民党が「ばら撒き」の形で一手に引き受けてきた)、平和主義政党なのに、なにゆえに憲法第9条に基づいて平和主義・「非武装」は主張するのに、第1条「象徴天皇制」にまつわる天皇制の正統性の根拠をなぜ問わないのか、昭和天皇の戦争責任を根本からなぜ問わないのか、そのことが平和主義政党として実に不整合・不合理だと感じていたからである。それならば、一層のこと戦後ドイツのようにナチスドイツの侵略行為を国家の戦争責任としてはっきり認め、それを世界に謝罪し、その上に立って国民国家としての「主権」を確保するための手段として再軍備を認める方が、はるかに筋が通っている。戦後日本においては天皇制の存続(あり方)を問題に付し、いかなる国家を構築するのか、そうした議論は全くなされなかった。この議論の不徹底さこそ、戦後日本社会において軍備をめぐる議論の争点(イッシュー)が常に「もやもやとした(曖昧となる)状況」となる要因をなしている。日米安保条約の条約事項の解釈、軍備の増強の問題(自衛隊「派兵」の問題も含めて)が持ち上がるたびに、この議論のもどかしさを我々はモロに味わってきた(もちろんそれは、軍備の問題にとどまらず、社会保障も含む社会全般の問題にわたっている)。
思えば、旧日本社会党は、「護憲」を謳いながら天皇制に伴う戦後日本社会の根幹的問題を社会に問うことはなかった。とはいえ、旧日本社会党は共産党に対する出自のコンプレックスゆえに共産党より逆説的にラディカルな面もあり、当然その中には「天皇制」のありようを根本的に問う指向性もあったはずである。ところが実際には冷戦構造の現実主義(リアルポリティクス)の前に軍備化の既成事実を積み重ねられると(今日では主権国家の役割分担という「国際貢献」の名のもとに)、「戦争に巻き込まれる」という被害者的な発想でしか「防衛論議」に対処できないこともあり、旧社会党系の主張は無力化された。旧日本社会党の一見した「非現実主義的」な思考(政治体質)に問題があると受け止められたが、問題の本質はもっと悩ましく、深い。
そこには「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」が働いていて、分かっていてもそこに踏みこめず、彼らの「平和主義」は戦後(戦争)の記憶が薄れるにつれてそのタブーの前に徐々に窒息・沈没させられた、ということである。その意味で存在根拠を掘り崩されたのは当然の成り行きであった。タブーがタブーであるためには、ある政治力学(機制)が機能しなければならない。つまり「コンフォーミズムconformism」という帰属上位集団の価値基準(規範)に自ら進んで順化しようとする日本人の精神風土である。「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」はその「コンフォーミズム」(俗に言えば自分の会社でもないのに「ウチ」(の会社)を連発する日本のサラリーマンのあの言動)とうまく嵌って不可侵の棚上げされた規範-日本人の内面を機制する論理-として機能する。その構造の摩訶不思議さ。「天皇制のタブー」と「コンフォーミズム」の結びつき-ともかくもこれが日本社会の編成原理-こそ、旧日本社会党の前に立ちはだかった大きな壁であった。もちろんそこには当然人々の「天皇制のタブー」への畏怖の機制が働いている。そのために自動的に窒息・沈没させられる運命にあった。旧日本社会党のそのいきさつを見ると戦後日本社会の出自の「秘密」をどうしても知りたくなる。その点でさまざまな示唆を与えてくれたのが、ともにイタリア政治史研究者である、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫2008年)と石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』(岩波書店2009年10月)である。

「政治的リアリスト」で『畏るべき昭和天皇』(松本健一の本の題名でもある)は「自らの連合国側の裁判を免れて“生き残る”ことが、長い伝統を誇る皇室を守り抜く唯一の道であり、それを獲得するためには、なりふり構わずあらゆる手段を講じる、という方向に踏み切ったのであろう。[…]かくして昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜くための天皇の徹底したリアリズムの表現であった、と捉えることができるのである」(豊下)。そのためにそれと呼応して「「先手を打って、既成事実を作ってしまおう」ということこそが、46年2月上旬のマッカーサーによる憲法の“押し付け”であり、これによって天皇制は維持されることになったのである」(同 傍線:吉沢)。そして、共産主義への強い警戒心から「天皇は、共産主義から日本を防衛する体制を確保することが講和に進む条件と主張しようとし」、「51年に入って開始された日米交渉は、“自発的で、無条件的”な日本の基地提供という帰結をもたらした。これは実質において「天皇外交」の勝利を意味していた、と言えるであろう」(同 傍線:吉沢)。この点で天皇の「政治的リアリスト」としての能力は遺憾なく発揮され、吉田外交との二重外交のもとで「不平等条約」といわれる安保条約の骨子がほぼ形成された。つまり、それは「何よりも、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本の防衛が義務づけられていない。しかし、その一方で、米軍には日本の「内乱」に介入する権利がある」(同)というシロモノであり、「[…]日本の基地提供は無条件的に「日本側からオファー」されるべきものというのが、天皇の一貫した立場であった」(同)。豊下氏の意図は「占領下において昭和天皇が「天皇外交」とも称すべき「高度に政治的な行為」を展開することによって、戦後日本の安全保障体制の枠組み形成に重要な役割を果たした」(同)ことを立証することにある。昭和天皇が戦後においてもいわば「公然と」上記の政治的行為を展開したのであれば、そのことは単に「安全保障体制の枠組み形成」にとどまらず、戦後日本社会の枠組みそのものを決定したとも見なすことができるくらいである。この事実をある程度は知っていたものの、これじゃ「戦後の日本社会は何もないに等しいじゃないか」という愕然とした思いに改めて駆られる。

PageTop

「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (3)

私が『再生産について』を最初読んだとき、まず感じたのは、「イデオロギーは主体における諸個人に呼びかける」のテーゼ(注:第三のテーゼ)のトートロジー性である。イデオロギーと主体の関係の解き方が堂々巡りで(詳しくは『再生産について』西川長夫監訳 平凡社P363を参照されたい)、著者は「鏡像的中心化」という言い回しでその問題の一端をインプリシットに指摘したと推測している。大体「支配的なイデオロギー」という表現自体が、トートロジーである。『再生産について』では「支配的イデオロギー、つまり支配階級のイデオロギー」という表現がなされているが、これは説明になっていない。「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」として問題は設定されなければならない。この問題設定の中にアルチュセールの概念構成の問題を解く重要な鍵が隠されているように思える。
私の勝手な思い込みを許してもらえれば、マルクス主義者であるアルチュセールは、マルクスの『ルイボナパルト・ブリュメール18日』のあの動態的な歴史・階級分析の意義・利点(階級(経済)的利害によって歴史の動因が決定される)を当然認めていたと思われる。余談だが、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』は私の愛読書である。それは単に歴史・階級分析の書というばかりでなく、物語-演劇として風刺、諧謔、アイロニーに充ち充ちており、私は戯曲として再構成したいという誘惑にすら駆られる。マルクスは序幕にあたって「[…]私は平凡奇怪な一人物(注:単なる酔っ払いで、滑稽な人物)をして、[ある人物の扮装をまとうことによって]英雄の役割を演ずることを可能にした情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかを示そう」、と口上を述べ、推理小説仕立てで「滑稽な人物」(俗物=経済的利害の反映物)を次々に登場させ、最後に「英雄の役割を演ずること」ができた謎を解き明かしていく。何回読んでもその手法の圧倒的鮮やかさには魅せられる。この中の登場人物は経済的利害の反映物にもかかわらず、皆独自のキャラクターをもっている。この手法に基づいて、アルチュセールは「イデオロギーと主体の関係」を描きたかったのではないか、とりわけ、当時主流であった正統派の経済反映論に対して、また主体の位置が既に決定されている「現実世界の疎外された性格による解決(注:疎外論)」、「イデオロギー的な欺瞞の張本人である諸個人の「党派」による解決」(『再生産について』)に対して、マルクスの歴史・階級認識の意義・利点を再認識させたかったのではなかったのか、そうとも思える。憶測を逞しくすれば、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』はいわばマクロの次元であるが、主体-精神というミクロの次元に引き下げて、イデオロギーの構造(既成のマルクス主義が等閑視する主体の問題)を論じたかったのではないか、ということである。
そう考えれば、私にとってアルチュセールの次の発想はわかる。その点で、『再生産について』の「第一のテーゼ イデオロギーは諸個人が自らの現実的な存在諸条件に対してもつ想像的な関係を表象している」、「第二のテーゼ イデオロギーは物質的な存在をもつ」は、この文言の限りは、先に述べた第三のテーゼへの導入でありながら、私にとって首肯できる。ここで混乱を起こさないために、イデオロギーとは、マルクスの用語法に倣い「ひとりの人間、あるいは社会的な一集団の精神を支配する諸観念や諸表象の体系」(同)と捉えておこう。
「第一のテーゼ」に関しては、「あらゆるイデオロギーは、その必然的に想像的な変形(注:原語はdeformaであり、「歪曲」という訳はアルチュセールの含意をやや捻じ曲げている)において、現存の生産諸関係(及びそれに由来するその他の諸関係)を表しているのではなく、何よりもまず、生産諸関係及びそれに由来する諸関係に対して諸個人がもつ諸関係(想像的な)を表しているである」(同)というように、「存在の諸条件に対する人間の関係」という要素が、従来的な「反映論」的解釈に付け加えられる。そこで、その「諸個人に対して与えられた表象は、なにゆえ必然的に想像的であるか、さらにこの想像的なものの本性は何か、という別の設問に置き換えられなければならない」(同)ことになる。この「想像的なものの本性」を巡って「第三のテーゼ」のイデオロギーと主体の関係へと議論は連結される。ただ、この「想像的な」とはラカンの精神分析のコノテーションを帯びた表現なのだが…
「第二のテーゼ」に関しては、「イデオロギーを構成しているように思われる「観念」あるいは「表象」等々が、理念的、観念的、精神的な存在ではなく、物質的な存在をもつ」(同)と、「観念」あるいは「表象」の物質的基盤が確認されている。ここで重要なことは、「[…]このようにして設置された完全にイデオロギー的な「概念的」仕掛け(彼が信じる諸観念をそこで自由に形成し、あるいは自由に認識する一つの意識を与えられた主体)のおかげで、前記の主体の行動(物質的な)は、そこから自然に流れてくる」(同)ことである。ただ、ここまではよい。だんだんトートロジー性を帯びて、わけがわからない言表になってくる。曰く、「この主体がもつ信仰がもつ信仰に関する諸観念の存在は物質的である。それはこの主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践の中に挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである」(傍点:アルチュセール)。この後で、ここで言及されている四つの「物質的な」に関して、アルチュセールは「物質性の諸様態の差異に関する理論の検討は別の機会に譲りたい」(同)と、肝心なテーマから逃げてしまう。思えば、実際には、マルクス主義の(資本制)認識にとって最も重要な「物質性」(注:私は経済的利害と解する)に関する基礎説明は弱く、「物質性」が諸個人の行動(意識)の中にいかに反映されるのか、その論証はほとんどなされていない(これはもしかしたら不可能かもしれないが…)。「国家のイデオロギー諸装置」という概念でそれを明らかにしようとしたとも判断できるが、それもラカン精神分析の認識論を導入し、その立論の仕方の欠陥ゆえにほとんど中座している。脇道に外れるが、こうした論証の不十分性は、フーコーと比べて読解の上で常に欲求不満を覚える大きな要素であった。
「国家のイデオロギー諸装置」の核心テーゼは第三のテーゼであり、第一のテーゼ、第二のテーゼはそのお膳立てである。ただ、この第三のテーゼは、先に述べた論証のトートロジー性ゆえに、また著者が指摘している「イデオロギーの通事的構造を「鏡像的中心化」として定式化」しているゆえにほとんど説得性をもたない。そのために、イデオロギーの構造(主体の問題)は解明されず、従って、「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」という命題も解明することができなかった(注:この文脈でいくと「経済的利害は言説機制作用においていかに諸個人の精神(意識)を取り込んでいくのか」が大きなテーマである。ヘゲモニー論と関連して、経済的利害と言説機制作用の関係は解くべき重要なテーマである)。当然、そのことは「国家のイデオロギー諸装置」の中心装置である学校-家族の「イデオロギー」の機能は期待したほど明確化されていないことを意味する。

一体どこにアルチュセールの主要な関心が向けられていたのか…もちろん唯物論と精神分析の節合にあることは間違いないのだが、精神分析の認識論の格好の素材(対象)として、教会-学校をまず想定し(注:それは比較的イメージしやすいから)、そこから「国家のイデオロギー諸装置」のイデオロギーの機能を同定しようとしたのではないか、そう思えてくる。ただ、残念ながら「国家のイデオロギー諸装置」は欠陥品である。
私の当初の勝手な思い込みも若干くじけそうだが、それでも、アルチュセールは「経済的審級の最終審級における決定性」に関して「正統派マルクス主義」とは別のアプローチ(立場)で、「国家のイデオロギー諸装置」を解き明かすという意欲は保持し続けたと信じてやりたい。また、「国家のイデオロギー諸装置とは、その多様性においてお互いの間に諸矛盾を孕む脆弱な存在であり、その意味で超越的な存在でない」(同)という認識は、アルチュセールが大きな影響を受けたグラムシのヘゲモニー論の読解に示唆を提供する可能性はある。その内実はともかくとして、概念的枠組みのスケルトンだけは、マルクス主義的な歴史・階級認識の枠組みの長所としてある部分活かしてやりたいという気持ちはある。私の場合、その概念を始めて知ったとき、これはあの「天皇制」(タブー化されている意味では若干「抑圧装置」の側面もあるが)の構造(天皇制-学校)を解き明かす上で少しは役に立つと思ったから…


PageTop