宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

映画「マルクス エンゲルス」を見る

 去る2018年12月に,私は試写でラウル・ベック監督のベルギー・ドイツ・フランス合作映画「マルクス エンゲルス」を見た。今年はカール・マルクス(1818~1883)の生誕200年にあたるので、それを記念した映画である。この映画にはもちろんエンゲルス(1820~1895)も登場するが、もとのタイトルは「若きマルクス」である。実際にこの映画は,1840年から1848年の『共産党宣言』あたりまでのマルクスの行動を中心にして描いている。
 この映画は、ライン州の森林の中で,枯れ枝を拾い集めている農民を,騎馬警官が暴力的に排除するシーンから始まる。森林に落ちている枯れ枝といえども、地主の「財産」であり、それを拾い集めるのは「窃盗」だとする立場と,いわゆる「入会権」を主張する側との対立である。マルクスは直ちに「ライン新聞」で論陣を張り,「枯れ枝拾い」の正当性を論じた。これは有名な事件であるが、念のためそのいきさつをマルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫,1974)に付された、訳者である城塚登の「解説」から引用しよう。
 「当時のライン州では貧しい農民が周辺の森林の枯枝を拾い集めて薪に使い,生計の足しにすることが慣習的に認められてきた。それに対して森林所有者の利害を代表する州議会議員たちは、落ちた枯枝といえども木材であり所有物であるから、枯枝集めも窃盗であり刑事犯であるとした。・・・・・・・マルクスは貧しい人たちの慣習的権利は,特権者の慣習的権利とは異なり,実定法に反するものであっても、本来の法律上の権利とは合致するものだということを論証し、貧しい人たちに慣習上の権利を返還するよう要求している。」(p.100~101)
 同じ問題を、廣松渉は次のように記している。「これは農民のいわゆる<入会権>の否認といった次元をはるかにこえる契機を孕んでいた。当時のプロイセンでは犯罪の八割以上,ライン州では何と九割が木材盗伐であったといわれるが、その背景には工業の急速な発展にともなう燃料と還元用木炭の需要が存在した。ドイツでは製鉄のために石炭コークスを使用するのが遅れ,久しいあいだ木炭が用いられていたという史実を想起されたい。盗伐は、森林所有者の<財産保護>もさることながら、森林保護政策という次元でも重大な問題になっていたわけである。」(廣松渉『青年マルクス論』平凡社、1971 p.120) しかし廣松渉は、この問題についてのマルクスが「問題を必ずしもこの次元で捉えたわけではなかった」と指摘している。これは別に考えるべき問題であるが、この「枯れ枝拾い」「木材盗伐」が、マルクスの思想にとって重要な契機になっていたことは確かである。つまり、この「枯枝拾い」のシーンは,マルクスの思想の原点のひとつであり、そこからこの映画を始めた監督の炯眼に注目しておきたい。
 この映画では、マルクスと同時代の思想家・活動家が次々に登場する。プルードンは、肖像画や写真で見たものとやや異なった風貌の俳優が演じているが、自信たっぷりの様子である。しかしマルクスはプルードンに対して批判的であり、『資本論』においても、「プルードン学派ほど<科学>という言葉をやたらに振り回す学派はなかった」と書いている(マルクス、今村仁司他訳『資本論 第一巻 上』筑摩書房、2004,p.106)。また、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』などで、「聖ブルーノ」「聖マックス」と、皮肉を込めて呼んだブルーノ・バウアー,マックス・シュティルナー、無政府主義者のバクーニンといった「脇役」がこの映画に登場する。あえて言えば、これはマルクス『ドイツ・イデオロギー』の部分的イメージ化である。『ドイツ・イデオロギー』は、マルクスの同時代のドイツ思想の批判であるが、そこで批判されている思想家・哲学者たちの姿が見えるところが、この映画の見所のひとつである。ただ、マルクスが「カプート・モルトゥーム」(「死んだ頭」「どくろ」という意味と、「蒸留の残滓」「つまらないもの」という意味がある)と皮肉ったこともあるヘーゲルは,残念ながら1831年にこの世を去っていて、スクリーンには出てこない。
 1840年代の「若きマルクス」は、「批判」を武器として使っていた。私の最も好きなマルクスである。その時代のマルクスを描いた「マルクス・エンゲルス」は、私にとって廣松渉の『青年マルクス論』と相互に浸透し、交錯する映画であった。 (2018年3月2日) 

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楊韜『メディアというプリズム』を読む

 楊韜の近著『メディアというプリズム』(晃洋書房、2018)は、注目すべき論集である。この本は,序章を含めて12の章から成るが、各章はぞれぞれがひとつのまとまった論文である。
 序章の「カール・クロウが見た中国と日本」は、「戦前に中国と日本で暮らしたアメリカ人の記者」カール・クロウが、「アメリカ人」という視点から、どのように当時の中国・日本の「庶民の日常生活」の報告をしていたかを論じている。中国人と日本人をどのように「差異」として見ていたかが論点となる。
 本書は「第一部 近代篇」と「第二部 現代篇」とに分かれている。第一部の第1章「近代上海における日本語メディアの一考察」は、20世紀前半に上海で刊行されていた日本語の雑誌「上海」についての考察である。この雑誌の成立過程、掲載された言説の内容のみならず、どういう広告が掲載されていたか、表紙はどうなっていたのかといった、通常は論点いになりえないことにも著者は注意を怠らない。それらを著者はすべて「メディア」として把握する。そしてそのプリズムとしての機能を十分に理解して考察する。そのようなプロセスを経て,著者は「近代上海の社会情勢」を描き出す。雑誌「上海」というメディアを時代を解読させるプリズムとして見立てる方法が駆使される。
 当時の上海には中国政府の行政権が及ばない「租界」があり、著者は雑誌「上海」の分析を通して、国民政府を租界との関係をも明らかにする。「1930年代末、上海の租界では抗日・排日活動」が頻発していたが、日本の立場の代弁者であった「上海」がそのような状況にどう対応していたかが論じられる。ここで注目しなくてはならないのは、当時の上海においては、国民党政府、租界、日本という、少なくとも三つの相対立する勢力がいかにからみあっていかを、「上海」というメディアの分析によって明らかにしたことである。
 第2章「近代湖南における雅礼協会の活動 湘雅病院の状況を中心に」は、中国湖南省長沙にアメリカ人が作った、「最初の西洋医学型の病院」である湘雅医院を考察したものである。この病院の中国人医師の多くは,日本の千葉医学専門学校(千葉大学医学部の前身)の出身であった。ここでも、アメリカ・中国・日本がからんでいる。
 第3章は、戦争中の中国でどのように紙幣が印刷・発行されたかを考察した,きわめてユニークな論文である。戦時下であるから、紙幣を印刷するための印刷機もインクも紙も不足していた。それを当時の中国人がどのように工夫をこらして紙幣を印刷していたかを調べたものである。
 第4、5章は,戦争中の中国の演劇・映画の分析である。戦争末期の中国は、国民党・共産党・日本軍という三つの勢力の争いの場であった。そのような状況のなかでの演劇・映画はどういうものであったか、それが時代を解読させるための素材として、緻密な分析がなされる。
 第6章からは「第二部 現代篇」になる。その「現代」とは、中国・台湾・日本の現代である。第6章は,台湾のテレビドラマをテーマにしているが、そこでは「眷村」の問題が取り上げられる。「眷村」とは、台湾にある外省人(中国本土から来た中国人)の集落のことである。つまりテレビドラマというメディアを通して、外省人と内省人の対立という現代台湾の政治的・社会的問題を考えようとする。
 第7章は、現代中国の人気テレビドラマ「裸婚」によって,現代中国の家族問題・社会問題に迫ろうとする。「裸婚」とは、車・ダイアモンド・マンションのない男性が「愛情だけ」で結婚することである。テレビドラマ「裸婚」というメディアの分析によって,現代中国の多様な問題が浮かび上がる。
 第8章は、中国のブログ、第9章は日本の携帯電話についての考察であり、きわめて今日的な問題への接近である。第10章は,3・11大震災とメディアの関係を論じ,第11章は,中国の大亜湾原発の安全性についての中国メディアの報道の分析である。
 
 本書のおよその内容を紹介したが、全体を通じて感じたことは,著者が現代の社会学的・記号論的・映像学的・哲学的な思考をよく理解し,その方法を駆使していることである。そのため著者の考察は,単に中国・台湾・日本のさまざまなメディアをメディアでのレベルでのみ考察するのではなく、その分析を通して、政治・社会の状況を解読するに至る。雑誌の広告、戦時中の演劇、テレビドラマなどに、政治的・社会的状況が明確に描かれているのではない。著者は、そこに描かれてはいないこと、隠されていることを発見していくのである。ラカンはかつてそのような作業がフロイトによってなされていたと指摘し、それを「シャンポリオン的解読」とした。本書の著者の作業にもそれと共通するものがある。私にとって,本書はまさに「読み応え」のある著作であった。(2018年2月22日) 

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永遠からの贈り物 ― パレスチナについて

    パレスチナについて何か書こうと思った直接の理由は、1月31日から2月4日まで江古田にあるギャラリー古藤で開かれていた「パレスチナ、平和を願う色彩展」を見たからであった。だが、パレスチナ問題について、私は以前にも何度か、時間をかけてしっかりと考えてみようと思ったことがあった。1970年代の後半、私は初めて、パレスチナの作家、ガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』という小説を読んだ。そのとき、パレスチナ人という存在の複雑さ、不条理さ、担わされた歴史の重さについてしばらく考えた。1980年代の後半に、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が話題となったとき、西洋中心主義の歴史観に強烈な一撃を与えたこの本を夢中で読んだ。そして、われわれは大文字で書かれた歴史にどれほど激しく汚染されているのか、パレスチナ人とは何かという問題を考えた。だが、最初のときも後のときも、何の結論も出ないままに時間だけが過ぎ去っていった。パレスチナはあまりに遠く、私の思考能力はあまりに貧しかったのだ。
    ギャラリー古藤での展覧会。このギャラリーで前回行われた展覧会「絵本から見る子どもの権利―スウェーデンの画家からの贈り物―」を訪れたとき、パレスチナに関係する次の展覧会のフライヤーを見た私は、フライヤーに写っていたパレスチナの織物に引き付けられた。この鮮やかな布がパレスチナで作られているとは信じられなかったのだ。私の知らないパレスチナを見てみたい。そう思った私は「パレスチナ、平和を願う色彩展」に向かい、展覧会を見て、「虐殺はなかった」、「そこにも日常はある」、「織物と刺繍」という三つの視点からパレスチナについて書いてみようと思った。

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キルギス映画「馬を放つ」を見る

 去る2017年12月に、私は試写でキルギス映画「馬を放つ」を見た。現代の日常生活では、馬が話題になることは競馬を除いてほとんどない。さらに、「馬車馬のように働く」というような馬に関連する言語表現は、「馬車馬」が存在しない今日では、もはや使いようがなくなりつつある。馬に限らず、比喩に用いられていた対象そのものが存在しなくなったために、その対象を用いた表現が消えつつある。2018年1月に中国を訪れたフランスの大統領マクロンが、習近平主席にフランスの馬4頭を贈ったというニュースは ニュースの価値のあるものであった。「馬を放つ」は、われわれの視界から消えつつある馬が登場する貴重な映画である。
 この映画の元のタイトルは「ケンタウロス」で、それはこの映画の主人公の綽名でもある。「馬を放つ」という日本での上映タイトルは、村上春樹が訳したジョン・アーヴィングの小説『熊を放つ』(Setting free the bears)から借りたものかもしれないと、若い友人に教えられた。しかし「馬を放つ」というタイトルは、この映画の内容をピタリと言い当てている。
 「馬を放つ」というのは、つながれている状態の馬を解放するということである。この映画の主人公ケンタウロスの欲望は、「馬を放つ」ことであるが、彼はそれによって何らかの利益を得たり、馬を自由にしてやって喜んでいるわけではない。「馬を放つ」のは、彼の純粋な欲望以外のものではない。しかし、それは現実には「馬を盗む」行為であって、「社会的規範」に反することであり、「犯罪」である。共同体の「掟」と、彼の「欲望」との決定的な矛盾・対立がこの映画のテーマである。
 それでは「馬を放つ」というのはどういう欲望なのか? 映画の中で,主人公ケンタウロスが語る印象に残ることばがある。「イスラム教の始祖ムハンマドは、文字を知らなかったので、馬に乗って天上に昇り、そこで神から直接に教えを受けたのだ。」ケンタウロスによる、このような馬への絶対的・献身的な欲望には、なにか宗教的なものがある。ギリシア神話では、半人半馬のケンタウロスは天に昇って星座のひとつになる。これは翼を持つ馬であるペガサスにおいても同じである。映画「馬を放つ」のなかで、主人公が馬を放ちたいと願ったのは、実は天に向かって放ちたかったのではないか。しかし、それはあくまでも彼の宗教的・想像的領域の問題であり、ラカンの概念を借りるならば「ル・レエル」の領域のことにほかならない。実践の世界、具体的には彼が障害のある妻・こどもと暮らしている村落共同体という現実の領域では、彼のこのような「幻想」は通用しない。彼は「馬泥棒」として逮捕され、その処分は村民の会議にまかされる。それは一種の直接的民主制のようにも見えるが、彼はそのような「世俗的」な解決に従うことができない。
 私にとって、この映画はきわめて「哲学的」な作品であった。
 
 この映画を見たあと、ふと想起されたのは、ケンタウロスと馬頭観音の関係を考えていた丸山静のことである。彼の考察の一端は、『熊野考』(せりか書房、1989)に収められている「馬頭観音」において示されている。この論文にも「馬を放つ」話が出てくるが、丸山静は熊野を歩いていて、補陀落山寺の観音堂で背丈80センチの馬頭漢音を見いだし、「馬頭観音,あれは何だろう?」と自問する。そして、次のように書いている。「古代のギリシアには、ケンタウロスというものがいた。デューラーがしばしば描き、フッサールも好きで、議論のなかによく引き合いに出したあれである。またインドにはガンダルヴァ、イランにはガンダレウァというものがいたし、北方のスラブ諸民族のあいだには、ゴディというものがいた。それらはいずれも半人半馬の怪物であったといわれている。」(p.71)
 この映画の舞台になっているキルギスは、中央アジアの国で、中国の西隣りに位置している。玄奨三蔵もインドへの往復にキルギスを通って行ったのである。古くから馬の産地として知られたところであり、馬にまつわる神話・伝説もあるはずである。ケンタウロスというと、いかにもギリシア神話風に聞こえるが、実際は中央アジアがその起源かもしれない。
 日本に馬が渡来したのは、4世紀後半であるといわれる。古墳時代であり、埴輪にも馬が登場する。聖徳太子が馬に乗っていたことは、伝承にも見えることである。数年前、静岡県立近代美術館で「富士山の信仰と芸術」という展覧会があって行ってみたが、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を登って行く絵が展示されていたと記憶する。聖徳太子が富士山という高い山に馬に乗って登るということが重要である。聖徳太子はリクリエーションとして富士山に登ったのではなく、「高いところ」を目指して、つまり何か宗教的なものを求めて登ったはずである。(2018年1月19日) 

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戦争画から民家のある風景画へ

 北風が冷たい年の瀬。12月28日。この駅に降りるといつも見かける大学生の姿はまったくない。大学はすでに冬休み。人影もまばらだ。改札口で地下鉄の駅員にもらった地図を頼りに大通りを右折した。少し歩き、左折。横道に入る。この辺りは閑静な住宅街。10分ほど歩いて、道を間違えたことに気づく。誰かに道を聞こうと思ったが、通行人がいない。しばらくしてやっと自転車に乗った初老の婦人に出会う。目的地までの道順を丁寧に教えてくれ、無事美術館に着くことができた。
 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館は1993年に開館した。この分館は生前、向井が長年住んでいた自宅とアトリエを美術館にした建物である。2017年も終わろうとしているこの時期にここを訪れようと思った理由は単純だ。昨日、戦争画についての資料を漁っていたとき、『美術手帖』2015年9月号の特集が「絵描きと戦争」であることを知った。今日、急いで、自宅から少し離れた市立図書館でその号を借りて読む。この号では戦時中戦争画を描いた画家の中で、藤田嗣治、宮本三郎、そして、向井潤吉が大きく取り上げられており、三人の画家の戦争画についてのテクストが掲載されていた。向井の戦争画については、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内裕司の書いた「率先して従軍した戦争画の開拓者:向井潤吉」という論文があった (以後、迫内に関する引用はこの論文からである)。この特集号を読んで、戦争画の展示はされていないだろうが、「向井潤吉 1970’s-1980’s 民家集大成」という展覧会が開催されている世田谷美術館分館に行き、彼の絵をじっくりと見たい。そう思ったのだ。
 向井潤吉の絵画について書かれたものの多くは、戦後の「民家の画家」という側面だけが強調され、戦争画家としての側面を正面から論じたものはほとんどない。そういった中で迫内の論文は特異なものであるが、「«突撃» の鬼気迫る表情に兵士の抱える漠然とした不安を見ることが出来るように、また、中国の町並みに日本の戦闘機が影を落とす («影(蘇州上空にて)» (1938) が、どちらかといえば中国側が受ける恐怖感を煽るように、向井の日中戦争の戦争画には、人々が気づかないふりをしていた、事変といいながらズルズル長期化していくこの戦争の闇を浮かびあがらせかねないものが、しばしば見受けられた」といった文章を読むと、向井には反戦的な思想があったような錯覚さえ受けてしまう。だが、それは正しい認識ではない。向井は戦争を熱烈に称賛してはいなかったが、反戦思想からも遠い位置にいた。彼は進んで戦争画を描きたいと考え、戦場に赴き、高揚した心持ちで戦争を記録したのだ。私はこうした向井の絵画制作姿勢が戦後の民家を描いた絵の中にも何らかの形で残っているのではないかと思ったのだ。
 この探究のために、ここでは「向井潤吉の初期作品」、「向井潤吉の戦争画」、「何故民家のある風景を描くのか?」という三つの探究視点からの考察を行う。この三つの視点による考察だけで十分に向井の戦争画問題について論じられるかどうかは判らない。しかしこうした問題を正面から取り上げた論文がない以上、このテクストを書くことも無駄なことではないと信じ、拙論を展開していく。 

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